4章4節 牧会学 - Pastoral Theology -
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初版 2009年9月7日
1. 主イエスから託された務め
「牧会」*1 という言葉は、羊飼いが羊の世話をするところから来た訳語です。
でも、もちろん畜産や獣医に関する神学ではありません。
*1 プロテスタントでは主に「牧会」と呼び、カトリックでは主に「司牧」と呼ぶことが多いようです。
「わたしは良い羊飼い」(ヨハネ10章11節など)とおっしゃった主イエスは、地上にいらっしゃる間、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている人々をご覧になっては深くあわれみ、世話を焼きました(マタイ9章36節、マルコ6章34節)。そのお姿は詩篇23篇に詠われる羊飼いさながらでした。
その主イエスは、復活の後、天に昇る前に、朝靄のガリラヤ湖畔で、ペテロに3度「あなたはわたしを愛しますか」と尋ねた後、「わたしの羊を飼いなさい」と託しました(ヨハネ21章)。
このとき使徒を代表して託されたペテロも、後年、同じように後進の長老たちに、「神の羊の群れを牧しなさい」と託しました(第一ペテロ5章2節)。
それ以来、教会は、主イエスから託された務めとして、キリストのからだである教会(エペソ〔エフェソ〕1章23節など)と、その器官である一人ひとり(第一コリント12章27節)を牧すのです。
このように、主イエスから託された務めとして、キリストのからだである教会を牧するのが「牧会」ですが、では、「教会」という羊は、どのように牧していったらいいのでしょうか。
この点を、牧会の意義と併せてさらに詳しく考察し、研究していくのが「牧会学」です。
2. 牧会の使命
【1】 主イエスのように
「わたしの羊を飼いなさい」と託された主イエスご自身が「良い羊飼い」であることを思えば、託された務めの目指すべきところは、「主イエスのように牧すること」といえるでしょう。
では、主イエスはどのように牧していたのか。詳細は聖書学や組織神学のキリスト論に譲りたいと思いますが、端的に福音書の主イエスの歩みを述べたものとして次の一節を引用します。これは、獄中のバプテスマのヨハネから遣わされた弟子たちに、主イエスが答えたものです。
「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている」(ルカ7章22節)
【2】 人々を助ける働き
まず、目に見える働きとして、癒しの奇跡など、人々を助ける働きが挙げられます。福音書に伝わる主イエスのお姿をはじめ、初代教会もまた、主イエスにならい、福音宣教とともに、人々を癒し(使徒3章など)、身寄りのない者を助け(使徒6章1節・9章39節など)、災害の救援にも尽力しました(使徒11章27~30節)。
後世の教会もまた、二千年の歴史のなかで、癒しと助けの働きを続けてきました。医療や福祉、教育の働きの多くが、教会や教会に属するキリスト者によって始められたことも、そのよい例です。
主イエスにならい、また、「神を愛し、人を愛する」という主の戒め、神のことばに生きるあらわれとして、教会は人々を助ける働きに携わってきました。
【3】 宣教の使命
ただ、忘れてはならないのは、主イエスと、キリストのからだである教会の使命は、病院や福祉事業の展開にあるのではなく、福音宣教、みことばの宣教による魂の救いにあるということです。
主イエスはおっしゃいました。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから」(ルカ4章43節)
また、五千人の給食の後には、次のようにおっしゃいました。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです」(ヨハネ6章26~27節)
サマリヤの女には、こうおっしゃいました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4章14節)
その後にこうもおっしゃいました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7章38節)これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことである、と続く39節で解説されています。
そして、中風の人の癒しに際しては、罪を赦す権威をもっておっしゃいました。「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」(マタイ9章2節)
日ごとの糧はたしかに必要ですが、食べてしまえばなくなるものです。病も、癒されてもまた病床に伏すかもしれません。どんなに充実した医療や食料があっても、誰もが迎える死という根本的な問題がそのままであるなら、本当の意味で「牧する」ことにはならないと思うのです。
誰一人例外なく迎える地上の死、肉体の死を、天の御国における永遠のいのちの序章として迎えるのか、永遠の滅びの宣告として迎えるのか。それを思えば、人にとって本当に必要なことは、まず魂の救いであり、罪を赦され、義と認められ、永遠のいのちをいただくことであるといえます。
だから、主イエスの第一の使命もその一点に集中します。滅びに向かう罪人のために十字架の死によって贖いをなし、それによる罪の赦しと永遠のいのちの福音を宣べ伝えるのです。福音書も、主イエスの福音の宣教(説教)を中心にして記されています。なにより、主イエスご自身が、みことばの説教に耳を傾けることを一番に喜ばれるのです(ルカ10章38~42節など)。
初代教会も、主イエスの地上の歩みにならい、主イエスの大宣教命令に従って(マタイ28章18~20節、マルコ16章15節、ルカ24章46~49節など)、みことばの宣教を第一にしました。実際、使徒の働き(使徒言行録)の各所で第一に報告されているのは、みことばの広がりです(使徒6章7節・8章25節・12章24節・13章49節・19章20節)。
また、使命遂行のなかで気の滅入るような反対を受けた使徒たちを励ます言葉も宣教の一点でした。
「人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」(5章20節)
「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」(18章9~10節)
【4】 宣教と愛のわざ
このように、宣教が第一の使命であることを確認しましたが、同時に、癒しや助けの働き、現代的にいえば医療や福祉などの愛のわざにも、キリストのからだである教会は、主イエスにならって力を注ぎます。
これはちょうど、信仰と行いの関係に重ねることができます。信じた者に与えられる聖霊に導かれて歩むとき(ガラテヤ5章25節)、信仰の告白として行ないが実を結び(同22節)、「神を愛し、人を愛する」というみことばに生きるようになります。信仰と、信仰告白としての行ないは、不可分一体なのです(ヤコブ2章22~26節)。同様に、みことばの宣教と、宣べ伝えたみことばに生きて「人を愛する」ことも、分けることのできない関係にあると思います。
ただし、信仰告白としての愛のわざは、時代によって異なってきます。まだ一般に医療が充実していなかった頃は、病に苦しむ人のために、教会は癒しに携わりました。また、福祉という概念がなかったところでは、教会がそれに取り組みました。しかし、時代や地域によっては、それよりも別の必要がある場合も充分に考えられます。たとえば、今の先進諸国の社会状況においては、教会は、医療や福祉に携わるよりも、むしろ教会にしかできない本来の使命、みことばの宣教と魂の救いに専念するほうが、より適切な愛のわざであったりするかもしれないのです。
愛のわざとして、その時代その地域に遣わされた教会として何をなすべきかは、変わることのない源泉であるみことばに絶えず立ち返り、主に祈りながら柔軟に応じていくべきものと考えます。
3. 牧会のあり方
【1】 牧会の役割分担
「よい羊飼い」である主イエスにならってなすべき教会の働きとして、みことばの宣教と愛のわざの両輪について考えてきました。
ところで、この両輪の働きすべてを、教会の働き人である牧師や司祭が担うべきかといえば、やはりそこには役割分担があると考えます。
初代教会においても、みことばの宣教が祝されて日ごとに教会の群れが大きくなるなかで、配給のトラブルが生じた際に、使徒たちは次のような解決を示しました。
「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち7人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」(使徒6章2~4節)
こうして、選出された執事たちは「愛のわざ」に携わり、使徒たちは「祈りとみことば」の奉仕に専念するという役割分担が生まれました。もちろん、役割は杓子定規に固定されるものではなく、執事に選ばれたステパノやピリポもみことばの宣教をしましたし(使徒7~8章)、使徒たちもその時々に応じて癒しのわざをしました(使徒9章32~43節)。ただ、それぞれ分担した役割を第一にして、そのなかで、時に応じ場合に即して、なすべきことに従事したのです(参照:第一ペテロ4章10~11節)。
牧会のモデルである主イエスの生涯にならい、キリストのからだである教会全体で担う働きを「広義の牧会」とするならば、そのなかでも使徒たちの専念した「祈りとみことば」の奉仕は、主イエスの第一の使命に直結するものとして、特に「狭義の牧会」と捉えることができるでしょう。
教会全体で担うべき広義の牧会と、「祈りとみことば」の奉仕のために召された牧師や司祭などの担うべき狭義の牧会とを整理して考えることは、それぞれの役割を明確にして、専念すべき働きに向かわせるものとして有益だと思います。
【2】 狭義の牧会の務め
狭義の牧会の務めとしては、前節までにみた礼拝や説教の奉仕に加えて、「祈りとみことば」に基づく「魂への配慮」という働きがあります。これは、礼拝の説教として教会全体に語られたみことばを、教会に集う一人ひとりの人生の具体的な状況に合わせて、改めて個別的に語りかける働きであると考えることができます。
具体的には、教会の一人ひとりを覚えてとりなしの祈りをしながら、必要に応じて訪問したり牧師室に招いたりして個人的に対話のときをもち、その人の現況を知り、さらにその人のために祈るのです。みことばの説教を、一人ひとりに合わせて個別的に語り直し、語られたみことばに生きることができるように祈るのです。これが、みことばを教会の一人ひとりに届ける狭義の牧会です。
そして、狭義の牧会によってみことばに生きるよう整えられたキリスト者の群れ(教会)が、広義の牧会を担い、その広義の牧会をとおして、まだ信じていない人々への生きた証がなされていくのです。
なお、狭義の牧会の務めは、礼拝や説教の奉仕と同様、「祈りとみことば」の奉仕のために特に召された者によって担われます。召命については、前節の説教者の項でも述べたように、奉仕に就こうとする者と教会との真摯な祈りのうちに、主の導きは明らかにされると信じます。
【3】 牧会者の資質
広狭の別を問わず、すべて牧会の務めに就く者は、「良い羊飼い」である主イエスの足跡に続くよう、求められます。
冒頭で述べた、羊飼いのない羊を深くあわれみ世話を焼くのはもちろん、喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣き(ローマ12章15節、第一コリント12章26~27節)、空腹の者や渇いた者、旅をし、裸で、病気をし、牢につながれた小さき者たちのひとりに対しても、主イエスに対するように愛を注ぐことが(マタイ25章31~46節)、求められるのです。
もちろん、先に述べた役割分担から、実際には直接関わらないケースや人々も多いでしょう。ただ、そこで語られている、「向き合う人の心になり、愛を注ぐ」ことは、牧会のどのような場合にあっても妥当する真理だと思います。
また、仕えるしもべとして奉仕することも、みことばから導かれる姿勢です。
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10章45節)
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」(ピリピ〔フィリピ〕2章6~8節)
「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」(ヨハネ13章14節)
【4】 牧会者の召命
このような牧会者の資質を思うとき、真摯に向き合えば向き合うほど後ずさりしてしまいます。
「自分は牧会に携わることなんてできない。広義の牧会であっても無理だ・・・」と。
その気持ち、たしかに、わかります。
ただ、驚くことに、こんなすごい足跡を示しながらも、主イエスが「わたしの羊を飼いなさい」とおっしゃるときに奉仕者に問うことは、たった一つだけなのです。
「あなたはわたしを愛しますか?」(ヨハネ21章17節)
できるかできないか、そんな心配は、奉仕者を主イエスの愛から引き離すものではないのです(参照:ローマ8章31~39節)。もちろん、聖霊に導かれて、みことばに生きるとき、必要なことはすべて主がなさせてくださる、という確信はあるかもしれません。でも、それさえも主の問いに応ずるか否かを左右するものではありません。なぜなら、たとえそうでなくても、つまり、できないとしても、今、確かに主が「あなたはわたしを愛しますか?」と問いかけてくださるなら、それに対する応えは、できるかできないかではなく、十字架によって示された主のご愛に応えて「愛するか否か」なのです。
主が確かに問いかけてくださるなら、そのときは私たちもペテロのように応えたいと思います。
「はい、主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」
「わたしの羊を飼いなさい」
4. 罪人に対する牧会
【1】 罪人の群れ
ここで、牧会すべき教会に集う「人」について、聖書の理解をみてみたいと思います。
一般的に、クリスチャンでない人は、「教会に行っている人なら品行方正だろう」という印象を抱いていることが多いと思います。少し斜に構える人なら「偽善者」と思っているかもしれません。しかし、実際に教会に集っているのは、偽善者どころか「罪人」です。
かつて主イエスの頃、周りにいたのは罪人たちでした。もちろん当時の宗教指導者たちは、「なぜ罪人たちと飲み食いするのか」とつぶやきましたが、主イエスは次のように答えました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2章15~17節など)
各地に教会の種を蒔いていったパウロも告白します。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」(第一テモテ1章15節)
そして、現代の教会に集うのも、やはり罪人なのです。
【2】 罪と罰
そもそも「罪」というのは、神のことばに背いて神から離れ、己を神として生きることである、と聖書は教えます(参照:創世記3章5節)。神のことば、すなわち「神を愛し、人を愛せよ」と要約されるところの主の戒めに生きるのをやめ、自分を神とし、自分の欲望を第一として生きることが「罪」ということになります。そして、殺人や姦淫、盗みや偽りなど、一般的に「罪」と認知されるものも、この「罪」の本質から生じるものといえます。
この「罪」に対する「罰」は永遠の滅びです。一般的に言われる「泥沼を這うような堕落した人生」というのも、もちろん罪の無残な結果といえますが、さらに恐ろしいのは、最後の審判の後の永遠の刑罰です。
この「罰」は「罪」の償い(代償)ではありません。人が償えるものではないからです。
社会における刑罰の場合は、懲役や罰金などに償いの要素を認めることができます。存在の否定である死刑でさえも、「死んで償え」と罵倒されるように、償いの要素を見ることができるかもしれません。
しかし、聖書のいう「罪」の「罰」は、償いというより、むしろ当然の帰結といえます。人は、神から離れては生きていけない被造物です。にもかかわらず、自分を神とし、真の神から離れれば、それは「人間」という被造物の存在意義・あり方を否定することであり、当然の帰結として「存在の否定」に至ります。それが聖書の「罪」に対する「罰」というものなのです。リンゴが木から落ちるように、「罪」の「罰」は、必然的な法則にしたがった「結果」といえるでしょう。
【3】 福音
「人は、神から離れては生きていけない被造物」と言いましたが、これをもう少し詳しく述べるなら、「人は、三位一体の神との愛の交わりに生きる存在として『神のかたち』(創世記1章27節など)に造られた人格的な存在である」ということができます。
義なる神は「罪」をうやむやにすることはありませんが、他方で、愛する者の滅びをそのまま静観なさる神でもなく、人のほうで償えないのなら神ご自身で罪の代償を用意される、そういうお方なのです。三位一体の父なる神のひとり子であるイエスを送り、十字架の死をもって人間の罪の贖いの代価とされたのです。また同時に、神から離れ、敵対していた人間に対して、これ以上にない愛を示し、再び神と愛し合う存在として戻ってくるよう、和解の手をさしのべたのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3章16節)
「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5章8節)
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。・・・私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(第一ヨハネ4章10・19節)
もはや隔ての壁は打ち砕かれ、敵意は廃棄されました(エペソ2章14~15節)。この和解のよい知らせ(福音)を聞き、さしのべられた手に応えるとき、すなわち、キリストの十字架の贖いが自分の罪のためであったことを信じて、「主イエスは生ける神の御子、私のキリスト(救い主)です」と告白するとき、その罪人はキリストの贖いのゆえに義と認められ、神と愛し合って生きる永遠のいのちに入れられるのです。また、地上にあっては、信じた者に与えられる聖霊に導かれて(ヨハネ14章16~17・26節など)、神のことばに生きるようになり、神を知り、神を愛していく人生が始まります。*2
*2 神のことばに生きることが、神を知り、神を愛することにつながる点は、「序章1節 神学とは何か」の「2. ひとまずのまとめ」をご参照ください。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ2章20節)
【4】 罪に死んだ罪人
さて、主イエスの贖いを信じ、罪赦され、古い自分に死んで新しく生まれ、聖霊に導かれて歩むキリスト者は、もはや罪を犯さないのでしょうか。かつては罪人だったけれども、今や聖人のように歩むようになり、よって、そういう人たちの集まりである教会も、やはり聖人の集まりに違いない。そう思うのは自然かもしれません。
しかし、キリスト者もまた、罪を犯すのです!
旧約時代の偉大な信仰者をはじめ、新約でも、パウロは手紙で「怒るな」「一致しろ」と書き送りながら、自身は怒って宣教チームを分裂させたことがありました(使徒15章36~41節)。ペテロやバルナバも、パウロに非難されていました(ガラテヤ2章11~14節)。また、教会の二千年の歩みを顧みても、十字軍遠征をはじめとした紛争や殺戮、聖職売買の汚職などを繰り返す歴史でした。何より、今みなさんの周りにいるキリスト者を見るのが、一番の例証かもしれません。
「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです」(ローマ6章4節)と言われるように、古い人は死んで、キリストとともに新しい歩みを始めたはずなのに、なぜ・・・。宗教改革者ルターの冗談が頭をよぎります。「そりゃ、古いアダム(人)は泳ぎが達者で、洗礼槽でもなかなか溺れ死なないのさ」
この点について、パウロは次のように告白します。「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。・・・私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7章19・22~24節)
しかし、パウロは続けて言います。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」(ローマ7章25節)
なぜ感謝できるのでしょう。それは、これからも続く地上の歩みにおいて、どんなにサタンにそそのかされて罪を犯したとしても、「罪は赦されている」という大前提は、主イエスの福音を信じて義と認められたときから変わらないからです。
では、罪はヤリ得なのでしょうか。赦されているのだから、犯し放題なのでしょうか。「絶対にそんなことはない」とパウロは言います(ローマ6章1~2・15~18節)。罪に対して死んだ者(同11節)であるキリスト者は、罪を犯し続けることはできないからです。それはあたかも、人が水中で生活できず、魚が陸上にい続けられないのと同じです。
そもそも、「罪」とは、神から離れ、神のことばに生きず、自分を神とすることだと前に述べましたが、その「罪」から表出する個々の罪(いわゆる犯罪や不品行など)をキリスト者が犯すときというのは、自由意志を与えられて生きる日々一瞬一瞬の選択のなかで、やはり心が神から離れているときなのだと思います(ときに反抗的に確信犯的に犯す場合も含めて)。
しかし、みことばやいろいろな出来事をとおして、じきに罪が示され、神に立ち返り、罪を悔い改めるのです。そして、キリストの十字架にともにつけられた者として罪に対しては死んでおり、キリストの復活にあずかる者として新しく生きることを思い起こし、聖霊に導かれて歩む日々を再出発します。
【5】 罪人に対する狭義の牧会
このとき、狭義の牧会は、罪を犯したキリスト者の、罪の告白を聞きます。そして、悔い砕かれた魂に対し、十字架の贖いのゆえに赦されていることを宣告し、聖霊に導かれて歩む新しい日々のために祈るのです。
なお、もし悔い改めることもせずに罪を犯し続け、罪のなかに生き続けることができるというのなら、その人は未だキリストとともに罪に死んだキリスト者ではないことを証明しているのです。そういう人に対しての牧会は、未信者に対するのと同様に、まず罪の宣告と福音の提示、そして「イエスは、神の御子であり、私のキリスト(救い主)」であることを信じて告白し、救われるようにと導くことになります。
5. 現代的な課題
【1】 法的責任としての守秘義務
ここまで聖書を開きながら総論的なことを述べてきましたが、この項では、少し細かく個別的な課題について考えてみましょう。まず、狭義の牧会における守秘義務の問題です。
日本では、刑法134条2項において、宗教関係の現職者や退職者が正当な理由もないのに業務上知り得た人の秘密を漏らした場合、6か月以下の懲役または10万円以下の罰金に処することが定められています。実際の運用においては、信教の自由(憲法20条1項)という難しい要素もあるので、刑法134条2項で刑事訴追された例はないようです(公開されている裁判例の範囲では)。
また、秘密漏洩の罪とは別に、牧会の相談などで相談者から聞いたことを礼拝の説教などの例話に使い、それが相談者の名誉を傷つけたような場合には、刑法230条の名誉毀損罪に問われることも、可能性がないわけではありません。ただ、こちらも信教の自由が関わってくるので、捜査当局の運用はかなり慎重になるようです。
他方、秘密を漏らされた相談者が訴える民事訴訟では、民法709条に基づく損害賠償請求事件などが考えられ、実際、相談者の告白した悔い改めの内容を牧師が漏洩した事実について、少額ながら損害賠償を認めた判決がありました(東京高裁1999年12月16日判決・判例時報1742号107頁)。
少し長くなりますが、この判決で述べられている一般論を引用します。「キリスト教徒が、牧師その他の聖職者に対して、宗教上の救済を得ようとして倫理に反する行為事実や宗教上罪となるべき事実を告白することは、もともとその告白について牧師その他の聖職者が秘密として守るべき義務を負うことを前提として行われているものであり、告白を行う者は、その事実に関係する第三者が告白の内容である事実を知っているか否かにかかわらず、外部に漏えいすることはないものと信頼し、専ら宗教上の観点から救済を求める趣旨で告白を行うものと推認される。その告白行為が専ら宗教上の行為であるとしても、牧師や聖職者の守秘義務は、宗教上の義務にとどまらず、宗教活動を職務として行うに不可欠なものとして、法律上も黙秘権として保護されているものであるから(例えば民事訴訟法197条1項2号等)、法律上も守秘義務があるものと解すべきであり、告白者の右の信頼は法的保護の対象となり得る法益というべきである。したがって、告白の内容が予期に反して第三者に漏えいされ、告白者のプライバシーや家族生活の平穏等の人格的利益等が侵害されたといえる場合には、不法行為が成立する」
なお、ルターは、告解の守秘義務に関して次のように述べたことが、『卓上語録』で伝えられています。「罪の告白は、私にではなく、キリストに対してなされたものである。よって、もしキリストがその秘密を守られるのであれば、私もその秘密を守り、聞いた一切を捨て去るのだ」
【2】 法的に正当な牧会活動の範囲
学園紛争の嵐が全国に吹いていた1970年代、日本基督教団の牧師が起訴される事件がありました。高校の教室をバリケード封鎖しようとして建造物侵入等の罪を犯した当時17歳の高校生2人を、牧会活動の一環として保護したことが、刑法103条の犯人蔵匿罪にあたるという理由でした。
その牧師は、片方の高校生の母親から懇願され、また、かねてより親代わりとしてその子の面倒を見ていたこともあって、少年たちの犯行後に彼らと面談しました。そして、彼らには、精神を安定させ、過激グループと絶縁するための時間が必要であると判断し、しばらくの間、信頼する知人牧師に預けたのです。このような牧会的な配慮もあり、反省した2人は後日、警察に任意出頭したのですが、その牧師は「犯罪者を匿った」として起訴されてしまったのです。
こうした経緯を受け、刑事裁判では、今回の牧会活動を正当な業務行為と認めて違法性を阻却し、無罪としました(神戸簡裁1975年2月20日判決・判例時報768号3頁)。ただし、牧会活動であれば何でも許されるわけではなく、牧会活動の重要性や必要性、蔵匿罪の軽重、少年たちの犯罪の軽重、牧会活動が功を奏して任意出頭したなどの具体的な諸事情を総合的に考慮した結果だったようです。
長くなりますが、この判決も一般論の部分を引用します。「一般にキリスト教における牧師の職は、ある宗教団体(教会等)からの委任に基き、日常反覆かつ継続的に、福音を述べ伝えること即ち伝道をなし、聖餐の儀式をとり行なうこと即ち礼拝を行ない、又、個人の人格に関する活動所謂「魂への配慮」等をとおして社会に奉仕すること即ち牧会を行ない、その他教会の諸雑務を預かり行なうことにある。そのうち牧会とは、牧師が自己に託された羊の群(キリスト教では個々の人間を羊に喩える)を養い育てるとの意味である。そこで、牧師は、中に迷える羊が出れば何を措いても彼に対する魂への配慮をなさねばならぬ。即ちその人が人間として成長して行くようにその人を具体的に配慮せねばならない。それは牧師の神に対する義務即ち宗教上の職責である」
「前認定被告人の所為は、自己を頼って来た迷える二少年の魂の救済のためになされたものであるから、牧師の牧会活動に該当し、被告人の業務に属するものであったことは明らかである」
「ところで、それが正当な業務行為として違法性を阻却するためには、業務そのものが正当であるとともに、行為そのものが正当な範囲に属することを要するところ、牧会活動は、もともとあまねくキリスト教教師(牧師)の職として公認されているところであり、かつその目的は個人の魂への配慮を通じて社会へ奉仕することにあるのであるから、それ自体は公共の福祉に沿うもので、業務そのものの正当性に疑を差しはさむ余地はない。一方、その行為が正当な牧会活動の範囲に属したかどうかは、社会共同生活の秩序と社会正義の理念に照らし、具体的実質的に評価決定すべきものであって、それが具体的諸事情に照らし、目的において相当な範囲にとどまり、手段方法において相当であるかぎり、正当な業務行為として違法性を阻却すると解すべきものである」
「宗教行為の自由が基本的人権として憲法上保障されたものであることは重要な意義を有し、その保障の限界を明らかに逸脱していない限り、国家はそれに対し最大限の考慮を払わなければならず」
「具体的牧会活動が目的において相当な範囲にとどまったか否かは、それが専ら自己を頼って来た個人の魂への配慮としてなされたものであるか否かによって決すべきものであり、その手段方法の相当性は、右憲法上の要請を踏まえた上で、その行為の性質上必要と認められる学問上慣習上の諸条件を遵守し、かつ相当の範囲を超えなかったか否か、それらのためには法益の均衡、行為の緊急性および補充性等の諸事情を比較検討することによって具体的綜合的に判定すべきものである」
【3】 心理学や精神医学、カウンセリングとの関係、そして脳科学
20世紀初頭から、人間理解の一助として心理学や精神医学の研究成果を取り入れたり、牧会的な対話にカウンセリングの技法を活用するようになりました。特にアメリカでは、それが牧会学や牧会の現場で主流を占めているようです。
たしかに、カウンセリングは、牧会的な対話の補助学として有益ですが、他方で、対話の技法のひとつにすぎないものでもあります。にもかかわらず、それをあたかも牧会の主要なもののように位置づけるのは、明らかに牧会の本質を見誤っているとしか言いようがありません。
また、心理学や精神医学も、いわゆる「心の病」に対することの多い牧会の現場に有益な知見を提供する、学際的な分野として活用すべきでしょう。しかし、それらの分野の土台とする世界観や人間理解は、聖書の教える世界観や人間理解とは矛盾することも多く、無批判に受け入れることはできません。
それに、いわゆる「心の病」は、フィジカルな「体の病」とは異なるメンタルなものと考えられてきましたが、近年、fMRIなどによって脳の働きが解明されていくにつれて、「心の病」についても、脳という臓器のフィジカルな病と捉える考えが強くなってきました。
従来の精神医学や心理療法は、外部に表出する人間の言動を観察して、様子をみながら実験的に投薬していき、適合する薬を探りながら治療する方法をとっていました。これは外部に表出する現象から間接的に脳の状態を知るという手法ですが、今後、医療機器が発達し、脳の研究が進めば、脳という臓器を直接調べることによって、より的確な治療を行うことができるようにもなると考えられています。
「心の病」も「体の病」と同様、フィジカルな臓器の異常と考えるようになれば、がんや生活習慣病と異なるところはなく、医療を専門に扱う病院で同じように治療すべきであり、生半可に教会が手を出すべきではないことがわかってきます。「体の病は病院で、心の病は教会で」という従来からの不思議な思い込みも、見方が変わってくると思います。
こうした流れをみるにつけ、これからの教会はますます、「心の病」よりも、むしろ本来第一にすべき「魂の救い」、そしてそのためのみことばの宣教にこそ専念すべきと思うのです。どんなに医療や科学が発達しても、それだけは教会にしか果たせない使命ですし、また教会にもできることだからです。仮に、それでもなお「心の病」に携わるというのなら、そういう教会は今後、本格的に脳科学・脳医学についても研究していくべきでしょう(可能ならばの話ですが)。それが誠実な対応というものです。
なお、このことは「心の病」を抱えて苦しむ人を教会が切り捨てることでは、もちろんありません。いわゆる「体の病」を抱えた人の病床に伴うように、「心の病」の人のかたわらに立つことは、これからも教会のなすべき牧会のあり方だと思います。
【4】 他の専門職との連携
複雑化した現代社会においては、個々の牧会的な相談においても専門知識を要する場合が増えています。一般的に、牧師をはじめとする教会の働き人は、「祈りとみことば」の奉仕については専門家であっても、他の専門性を要する問題については特別な訓練を受けていない素人と同様です。下手に抱え込んで問題を悪化させてしまっては誠実な牧会とは言えません。先に述べた医療の場合に加えて、社会的な問題を抱えて教会に来た人に対しても、必要に応じて、ソーシャルワーカーや臨床心理士、法律家や行政機関など、関係する分野の専門家と連携を密にしながら「魂への配慮」をすべきでしょう。
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