序章1節 キリスト教神学とは何か

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初版 2008年3月23日

1. 信仰の先輩の声

 「神学(キリスト教神学)」という言葉は、聖書に出てきません。けれども「神学」は、二千年にわたり、国を越えて、多くの神学者たちによってなされてきました。では、先達たちは「神学」をどのように考えていたのでしょう? まずはその声に耳を傾けてみましょう。

【1】 アレクサンドリアのクレメンス

 2世紀の終わり、まだキリスト教がローマ帝国に認められていなかった頃、アレクサンドリアのクレメンス*1 は、異教を意識するように、こう弁証しました。*2
 「神学とは、神についてのキリスト教の真理主張である」
 *1) Titus Flavius Clemens, 150?-215?
 *2) クレメンス/秋山学:訳 「ストロマテイス」『中世思想原典集成 第1巻』 平凡社 1995年

【2】 ヒッポのアウグスティヌス

 4世紀末、キリスト教が国教化し、帝国が東西に分裂する兆しを見せ、異民族の脅威が増してきた頃、ヒッポのアウグスティヌス*3 は、次の2つの主題から神学的な思索をしました。*4
 「主よ、あなたは私にとってどういうお方なのでしょう」
 「私はあなたにとってどういう者なのでしょう」
 *3) Aurelius Augustinus, 354-430
 *4) 『告白』(岩波文庫など複数の邦訳あり)

【3】 カンタベリーのアンセルムス

 11世紀、カンタベリー大主教のアンセルムス*5 は、彼の神学を表す有名な言葉を残しました。*6
 「理解するために信じる」 「知解を求める信仰」*7
 *5) Anselmus, 1033-1109
 *6) 『プロスロギオン』(岩波文庫など複数の邦訳あり)
 *7) "Credo ut intelligam" "Fides quaerens intellectum"

【4】 トマス・アクィナス

 13世紀、神学教育の中心が修道院から大学に移る頃、アクィナス*8 は、こう答えました。
 「神学とは、神によって教えられ、神について教え、神へと導くものである」*9
 *8) Thomas Aquinas, 1225-1274
 *9) "Theologia a Deo docetur, Deum docet, et ad Deum ducit"

【5】 改革者カルヴァン

 16世紀宗教改革の頃、カルヴァン*10 は、大切な真理として次の2つを挙げました。*11
 「神を認識すること」 「我々自身を認識すること」 (「両者の絆は分け難い」とも述べる)
 *10) Jean Calvin, 1509-1564
 *11) カルヴァン/渡辺信夫:訳 『キリスト教綱要』 新教出版社 2007年

【6】 近代神学の父、シュライアマハー

 19世紀初頭、「近代神学の父」と呼ばれるシュライアマハー*12 は、次のように記しました。*13
 「神学とは、教会と不可分で、教会の指導(教会政治)に不可欠な学的知識・技法の総体である」
 *12) Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher, 1768-1834
 *13) シュライアマハー/加藤常昭:訳 『神学通論』 教文館 2009年

【7】 カール・バルト

 20世紀、極端な自由主義によって、神の存在と神のことばを疑うことが盛んだった頃、バルト*14 は、晩年の講義*15 で、反論するように述べました。
 「神学とは、神のことばによって啓示された神のみこころに対する人間の応答の学である」
 *14) Karl Barth, 1886-1968
 *15) バルト/加藤常昭:訳 『福音主義神学入門』 新教出版社 1968年

【8】 カトリック神学者、カール・ラーナー

 同じく20世紀、ローマ・カトリックの神学者ラーナー*16 は、こう語りました。
 「神学とは、信仰の学、信仰によって受け得た神の啓示の意識的な秩序だった解説である」
 *16) Karl Rahner, 1904-1984

2. ひとまずのまとめ

 いろいろな「神学とは」という意見に耳を傾けてきましたが、いかがでしたでしょうか?
 もちろん、神学の範囲は時代によって異なり、専門分化して現在のような形になったのも19世紀以降ですから、それぞれの「神学」の定義が違うのも当然でしょう。しかしそれでも、「聖書に啓示された神と向き合う」という基本姿勢は、変わらないように思います。

 さてここで、ひとまずのまとめとして、大胆にも「神学」を定義してみたいと思います。
 「神学とは、みことばに生き、生きる姿をとおして福音を宣べ伝えることである

 もともと英語やラテン語の「神学」という言葉の語源は、2つのギリシャ語を合わせたものでした。
 θεός (theos「神」) + λόγος (logos「言葉・語ること」)
 = θεολογία (theologia「神について語ること」)
 神について語るには、神のことを知らなければなりませんが、キリスト者の愛し礼拝する神は、ご自身のほうから語りかけてくださいます(これを「啓示」といいます)。
 その方法は、「聖書」という手紙(メディア)に、神のことばを乗せて。
 そのメッセージは、神のこと、人のこと、神が人を愛していること、人も神を愛して生きること。神を愛するとは、神のことばを守って生きること(ヨハネ14章23節・15章10節、第一ヨハネ5章3節)。生きて、愛して(ヨハネ15章12節)、そうして、神の愛の福音(救いの知らせ)を隣の人に届けよ、という命令(マタイ28章20節ほか)。逆に、神のことばに生き、神の愛に生きない限り、本当の意味で神を知ることはできない(第一ヨハネ4章8節)。そういうメッセージです。

 だから、神のことを知り、神について語る(神学する)には、神のことば(みことば)の記された聖書を読み、その神のことばに生きなければならないのです。言い換えれば、「神学する」と言った場合、少なくともそれが「キリスト教神学」という場合には、すべて最終的にはこの一点に結びつく取り組み、この一点に貢献するものでなければ、意味がないのです。神を知り、神について語ることにならないからです。
 こうして、先に述べた定義に至るのです。