序章2節 キリスト教神学の方法
BibleStyle.com
初版 2008年3月23日
1. 条件 = キリスト者であること
以上、述べてきたことを踏まえれば、「神学する」、つまり「神を知り、神について語る」には、神のことば(みことば)に生きることが求められます。
しかし、誠実に自分の心に向き合うとき、神のことばに生きるなんてできないことに気づきます。それどころか、宗教改革者ルターがのたうちまわったように、自分のうちにある罪に苦しくなります。罪のうちにある者は、みことばに生きることはできず、よって、神学することもできません。
神学をするにはまず、罪を赦されなければなりません。神と断絶して泥沼のような罪のうちを歩む状態から、救い出されなければなりません。その救いは、主イエスを、生ける神の御子、キリスト(救い主)と信じるよりほかにありません。主イエスが、罪の贖いのために十字架で死んでくださったこと、死に勝利され復活されたことを信じて、ただ恵みによって救われるしかないのです。
こうして、罪に歩むところから立ち返り、キリストを信じて救われた「キリスト者」には、神からの約束のものが与えられます。三位一体の神である聖霊です。この聖霊に導かれるときに初めて、みことばに生きる歩みを始めることができ、そうして神を知っていくことが始まります。
このようなわけで、哲学や宗教学ではなく、他の神学でもなく、少なくとも「キリスト教神学」をするには(キリスト教の神を知り、神について語るには)、「キリスト者」であることが必須なのです。
もちろん、キリスト教の神を信じる人について、また信仰者の思想についてであれば、信仰者やその著作を対象とすればよいので、必ずしもキリスト者であることは要しません。しかし、それは宗教学や哲学、文学などの人間学であって、神を対象とする神についての学、神学ではありません。
また、他の信仰者の書いた神学書を読み、それについて論評するだけなら、キリスト教の知識さえ仕入れれば、あるいはできるかもしれません。しかし、そこには何の新規性・創造性もなく、学問的発展を期待することもできません。所詮、サルまねの神学です。本当のキリスト教神学は、上から与えられる恵みによって神を知り、神について語らなければならないのです。
2. 心得 = 絶えず祈り、聖書を読むこと
神学する(神を知り、神について語る)には、神を知らなければならず、神を知るには、神のことば(みことば)に生き、その命ずるところの神の愛に生きなければならない。
これまで述べてきた以上のことを踏まえると、神学の前提(心得)として、神のことばの記された聖書を読む(聴く)ことは当然に導かれます。読まないでみことばに生きることはできませんから。また、祈ることも導かれます。みことばは、聖霊に導かれて、絶えず神に聴きながら読むものであり、その行為を「祈り」と言うからです。
「祈りとみことば」という一体の行為によって、みことばに生きるよう導かれ、神学の備えがなされる。これは多くの神学者も証言するところであり、前に述べた4世紀のアウグスティヌスも、しばしば筆を置いては祈り、それからまた筆を新たにして次の論述に入ったと言います。
この「聖書通読表」のホームページも、キリスト者の礼拝と神学の生涯のためにあります。
3. 技法 = 文献を駆使し、批評的に問うこと
キリスト教神学には、二千年の歴史と国際性から、膨大な文献があります。多くの神学者(信仰の先輩)が、同じようにみことばに生き、神を知って、神に教えられて、そうして遺してくれた遺産であり、証しです。
もし、「人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリピ〔フィリピ〕2章3節)というみことばに誠実であるならば、先人の、神から教えられた知恵に耳を傾けるでしょう。そして、「巨人の肩に乗る」ということわざのように、先人の遺産を土台にして、新たに私たちの知った(教えられた)神についての知見(バトン)を、創造性豊かに、現代に、また後の世代に、伝えていくのです。
そういうわけで、先人の遺産である文献にあたること、しかも、偏りを防ぐために、できるだけ多くの文献にあたることは、キリスト教神学をするにあたって大切になります。
文献を読むときには、「『なぜ』を5回繰り返す」ような感じで、批評的に、問いつつ読むのがよいと思います。「どういう背景があるのだろう?」「なぜ著者はこう書いたのだろう?」「本当に神に教えられて書いたのだろうか?」など・・・。そうすることで、漫然と読むときには得られない感覚、その著者が神を「知って」執筆した当時と同じような新鮮な感覚、神に教えられる経験を共有することができます。また、もし著者が神を本当の意味で「知って」書いたのでなければ、その真贋を見極める作業にもなります。
さらに、神学をする者として、みことばに生きるなかで、「神様、なぜですか?」と問うときも、きっとあるでしょう。それも批評的な神学の営みです。
詩篇など聖書の人々にみられるように、人には「なぜ」を問う自由が許されています。それは、人が、ロボットではなく、神に似せて「神のかたち」に、意思をもつ存在として造られたからです(創世記1章26~27節)。
ですから、この許された自由(タラント)を用いて、祈りのなかで「なぜ」と問いながら、みことばに生き、神を知っていき、そうして学んだものを説教や講義、ブログや著書にして、次に伝えていくのです。
こうして、文献に「なぜ」を問い、先人の経験をとおして学ぶ一方、自ら日々みことばに生きるなかで神に「なぜ」を問い、自身の経験をとおして学ぶ。この両方を創造性豊かに合わせるなかで、独自の新しいものを生み出していく。それが神学の技法です。慣用的に言えば、「理論と実践を融合」していく作業なのです。
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