4章3節 説教学と宣教学 - Homiletics and Missiology -
BibleStyle.com
2版 2009年11月26日 初版 2009年7月27日
1. 説教総論
【1】 説教とは
「お説教」というと、あまり有り難くないイメージを抱くのは、どうも日本語だけではないようで、英語の辞書にも似たような意味が出てきます。他国語にもそういう印象がある以上、日本語固有のものとは言えず、「説教」の好ましくない印象を一概に仏教の説法のせいにすることはできません。むしろ、キリスト教の説教によってその印象が変わるまでに至っていないのは、洋の東西を問わず、古今のキリスト教の説教が、本来の生き生きとした姿を失っていたことを物語っています。
そもそもキリスト教の「説教」とは、聖書に記された「福音」(ローマ1章2~4節)を、今日の教会、特に礼拝という場において、生き生きと宣べ伝えるものということができます。それを聞いた者が、自分の罪を示されて心を刺されるとともに(使徒2章37節)、罪の赦しの福音と、その輝ける証しである主の復活に心を燃やされる(ルカ24章32節)、そういうものなのです。よって、語る者も聞く者もともに福音に心動かされるものでなければ、「生き生きと」という定義に反し、「説教」ということはできません。
【2】 説教学とは
そして、この「説教」の意義やその奉仕者について、また個々の説教の構成や語り方などの方法論について研究する分野を「説教学」といいます。
ちなみに、説教学の対象となる説教については、「礼拝」という場に限定しない見解もありますが、それについてはより広い概念である「宣教」の研究分野とし(後述します)、説教学の対象としては礼拝の説教に限定する見解を採りたいと思います(多くの説も似たような見解を採ります)。
また、「礼拝のなかの説教」という点からすれば、説教は礼拝学の一分野というのが本来の分類でしょう。ただ、プロテスタント教会では、聖書に立ち返り、聖書に基づく説教を礼拝の不可欠の要素とした宗教改革の伝統から、説教を独立して詳しく研究する傾向にあります。*1
*1 なお、プロテスタント教会では、礼拝の不可欠の要素として、説教とともに、聖書に基づく聖礼典(サクラメント)を挙げ、聖礼典については礼拝学の主要な分野として研究します。
2. 聖書にみる説教の意義
【1】 新約からの伝統
「説教」という言葉自体は、日本語の聖書にはあまり出てきません。検索してみるとわかりますが、新改訳、新共同訳ともに「ヨナの説教」(マタイ12章41節、ルカ11章32節)くらいです。*2 「ヨナの説教」の現代的なイメージは、礼拝説教というよりむしろ未信者に対する伝道説教・宣教という感じですから、いわゆる礼拝における説教を指す用語としての「説教」ではないと考えられます。
では、礼拝における説教は、後世のキリスト教文化の生み出した伝統であるかと言えば、必ずしもそうではありません。主イエスの時代にも、ユダヤの会堂では、安息日ごとに聖書(旧約)の朗読と説教がなされていました(ルカ4章15~22節)。そして、初代のユダヤ人キリスト者たちもその伝統を引き継いだことを思えば、礼拝説教の伝統は、新約聖書の時代から連綿と続くものと言えるでしょう。*3
*2 原語は「κήρυγμα」(ケーリュグマ)。なお、新共同訳では、第二テサロニケ2章15節の「λόγος」(ロゴス)も、「ことば」ではなく「説教」と意訳しています。
*3 礼拝の曜日については、ユダヤ人の安息日である土曜日ではなく、主イエスの復活された日を記念して、日曜日をキリスト教の礼拝の日(主日)としています。
【2】 説教のスタイルと内容
主イエスや使徒たちから続く説教の伝統ですが、当初の説教はどのようなものだったのでしょう。
新約聖書を見ると、まず、聖書朗読とともになされていたことがわかります(ルカ4章16~17節)。また、聖書に基づいた説教だったことがうかがえます。パウロは、安息日ごとに聖書に基づいて論じ(使徒17章2節)、聞いた人々も、そのとおりかどうかと聖書を調べた(同11節)とあります。
さらに、当時の説教の内容は新約聖書のなかに見出すことができます。福音書にある主イエスの説教や、書簡に記されたパウロの教え、使徒の働き(言行録)にある説教の記録は、彼らが安息日などに会堂や宮で教えていた説教とほぼ同じものを収録したと推測されるからです。この点から、新約聖書は、いわば旧約聖書(当時で言う「聖書」)に基づいた「説教集」として読むこともできます。
こうしてみると、聖書朗読と聖書に基づく説教というスタイルは、初代教会からの説教の伝統を受け継ぐ現代の教会の、倣うべき説教の型と言えます。また、「説教集」としての新約聖書から汲み取れる内容は、現代の教会の、倣うべき説教の内容と言えます(他方で、とってつけたように聖書のことばを添えるだけで、あとは説教者の思想の講演や時事評論、世間話などに終始するおしゃべりは、新約聖書の伝統を受け継ぐ説教ではないといえるでしょう)。
【3】 語るべき福音
では、現代の説教が倣うべき「説教集」である新約聖書の内容とは何でしょうか。すなわち現代の説教においても語られるべき内容とは・・・。
もちろん、聖書通読を経た読者ならば了解のことですし、詳細の言及は聖書学はじめ神学諸科に譲るべきことですが、一節だけ、ヨハネ福音書の記者の言葉を借りたいと思います。
「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(ヨハネ20章31節)*4
*4 ちなみに、この箇所を含めていくつか重要な箇所で、新共同訳が「χριστός」(クリストス)を、旧約からの論証を意識して「メシア」(旧約ヘブライ語)と意訳しているのは、親切ではありますが、「キリスト」という語感に慣れた者としてはなんとなく残念です。
3. 神のことばとしての説教
礼拝の説教は説教者である人間の言葉ですが、しばしば「神のことばとして語られる」と言われます。特に、宗教改革者や後継の神学者たちなどプロテスタント教会において顕著で、改革派の第二スイス信仰告白1章4条には「神の言葉の説教は神の言葉である」という表題が付されていたりします。
これは、パウロの説教が「みことば」として聞かれたこと(使徒17章11節)、パウロも手紙のなかで「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです」(第一テサロニケ2章13節)と述べていることなどから根拠づけられます。
この「神のことば」の意義については、前節の聖餐論でみた「パンとぶどう酒」と同じように、宗教改革者の間で見解が分かれます。*5
聖餐論で共在説を主張したルターは、説教の「神のことば」の意義についても、それは説教者(人間)の言葉であり、同時に神のことばであると考え、説教者が語るとき、「その声は神の声である!」とまで述べたそうです。
他方、聖餐論で象徴説を採ったツヴィングリは、ここでも、説教はあくまで「人間の言葉」であると考えました。つまり、説教はキリストに対する人間の証言であり、聖霊によって与えられる真の内なる神のことばを求めるようにと聞く者を促すものである、と主張したのです。
そして、折衷的な見解を採るカルヴァンは、ここでも折衷的に、神に聖別された説教者によって神の御声は鳴り轟くのだが、同時に、聞く者の心を照らす聖霊によらなければその言葉は何の意味もない、と述べます。
*5 参照:『リフォームド神学事典』の「説教の神学」(David G. Buttrick)
礼拝の説教を「神のことば」として聞くことは、聖餐の「パンとぶどう酒」を「肉と血」として(または記念として)受けるのと同様に、聖礼典のような(サクラメンタルな)ことと言えます。つまり、聖礼典と同様、説教もまた、礼拝において主の恵みがあらわれる媒介として用いられるのです。*6
他方、説教が「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」(第一コリント1章23節)のと同様に、聖餐もまた「主の死を告げ知らせる」(同11章26節)ものであるということは、聖礼典である聖餐が、いわば「見える説教」の役割をも担っていると言えるでしょう。
説教と聖餐。ともに主の十字架の福音を宣べ伝え、救いの恵みを示す、両者の密接な関係は、「神のことばとしての説教」の意義を考えるときの示唆を与え、聖礼典と同じく説教もまた、礼拝(ひいては教会)の不可欠な構成要素であることを思わせます(参照:アウクスブルク信仰告白5条)。
*6 説教と説教者のサクラメンタルな点を論じた古典的文献として次のものがあります。
『フォーサイスの説教論』(ヨルダン社 1997年)「第3章 説教者と教会、もしくは礼拝としての説教」
〔原著:P. T. Forsyth, Positive Preaching and Modern Mind, 1907〕
4. 説教者とその修練
【1】 説教者
説教者は、礼拝において「神のことば」を語る者として、聖礼典を執り行う者と同様に重い職責を担います。その職責は、教会のなかで語るように召し出され、語る賜物を与えられた者(第一コリント12章)によって担われます。
どんなに語るのがうまくても、楽しいことを話せても、博識でも、その能力ゆえに説教者になるのではありません。人間の言葉は、どこまでいっても人間の言葉でしかありません。「神のことば」として語られ、そのように聞かれる説教の務めを果たすのは、神が説教者として選び召した者によるのです。聖餐においても、執り行う者の信仰や能力によるのではなく、神に召された者によって執り行われるゆえに、「パンとぶどう酒」が「主の肉と血」として受け取られるのと同様です。たとえ「この世の取るに足りない者や見下されている者」(第一コリント1章28節)であっても、神が召された者であるならば、その者は説教者として語るのです。
なお、説教者の召しは、牧師(司牧)の召しとは必ずしも一致するものではなく、牧師として召されていない者であっても説教者として召されている場合もあると考えられます。聖書や教会史を振り返り、パウロなど、現代から見れば自分の職を持った信徒宣教者たちも説教者として用いられていたことを思うと、牧師以外の者がその礼拝の説教者として召されている場合もあると考えます。実際、牧師のいない(無牧の)教会では、信徒の方が説教者として立てられる場合もあるでしょう。
教会が真摯な祈りのうちに主の導きを求めるならば、主の召しは明らかにされると信じます。
【2】 説教の修練
「神のことばとしての説教」を語る者としての召しは、人間的な基準によるわけではありません。また、実際に「神のことば」として語られるのも、人間の能力によるのではなく、聖霊によります(第一コリント2章4節)。しかし、だからといって召された説教者がそれを言い訳に賜物の研鑽を怠るのは、「タラント」を土に埋めるようなものです。むしろ、真に神に召された説教者は、主のご用のために、自ずと研鑽するものです。*7
*7 「神のことばとしての説教」は聖霊によるのであり、説教を左右するのも聖霊によるのであれば、人間的な説教の技芸を研鑽するのはナンセンスではないか、という論理は否定されるべきでしょう。ちょうど、「私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう」という論理が「絶対にそんなことはありません」と否定されるように(ローマ6章15節)。聖書各巻が聖書記者それぞれの個性と賜物を生かして記されたように、説教も説教者それぞれの個性と賜物を生かして語られるとすれば、賜物を土に埋めることなく生かし磨くことも、召された説教者に委ねられた責務と考えます。
神学校の説教学に演習が伴うことからもわかるように、説教の仕方は、座学のみならず、職人の技芸のように習得される要素も強くあります。多くの説教を聞き、先人の技を盗むような感じです。説教者のタマゴたちは、神学校の日々の礼拝で説教を聞いて、説教の技芸を磨きます。*8
もちろん、そういう恵まれた環境にないことも多いでしょう。その場合には、先人の説教集を読み込み、説教の型を修練するのが有益です。その際、礼拝の場で語られた説教を復元する意味で、説教を語るように音読してみるのがよいと思います。
ちなみに、先述のように「新約聖書は旧約聖書に基づいた説教集でもある」と考えるならば、聖書を読み込むことこそ説教の一番の修練と言えるかもしれません。そこには、主イエスの説教や初代教会の先人たちの説教があふれているからです。また、聖書に親しみ、全巻に通じることは、聖書に基づいた説教をするためにも必須です。*9
*8 なお、日本の多くの教会では日曜日にしか礼拝説教がありませんが、カルヴァンなど宗教改革者たちの時代は、ほぼ毎日礼拝がもたれ、説教が語られていました。
*9 渡辺善太『聖書的説教とは?』(日本キリスト教団出版局 1968年)には、次のように述べられています。「『聖書をしらない牧師ほど、教会における無用の長物はないと思う』と断言する。それはちょうど、法律をしらないで裁判官になっているようなものである。はためいわくこの上なしである。来る日曜も来る日曜も、『半煮え』の時事問題や思想問題を、しかも素人くさいその扱い方できかされては、信者がやり切れなく感ずるのは当然である。・・・何より困ることは、こんな説教のみがせられているとき、教会は徐々に弱体化していく、ということである。これは一教会だけの問題ではなく、日本全体の宣教問題である。つまりこれをふせぐのが聖書的説教の実践である」(33頁)
また、『フォーサイスの説教論』(ヨルダン社 1997年)には、次のように述べられています。「ある説教者たちは聖書を仕事の上だけしか、つまり説教の種本としてだけしか知らない。しかし真の牧師職は、これに基づいて生きなければならない。聖書という静かな聖所の中から語らなければならない。聖書のまさに内奥から語ってそのすばらしさを伝える説教を聞くことに会衆がどんなに熱心であるか、われわれは常に分かっているわけではない。実際、聖書の中に生きている人は、同じことをして自分で驚いている。・・・聖書は今もなお説教者の唯一の手引書である。永遠の生命へと至る唯一の案内書であり、人生が暮れてゆくとともに輝きわたる唯一の書、年をとればとるほど、その富を知り、愛するのが遅すぎたとくやしがる、唯一の書物なのである」(42頁)
【3】 説教の技芸
細かいことになりますが、ひとつだけ説教の技芸について述べます。説教者は、礼拝において登壇するまでは、整理してわかりやすく語るためにも綿密な原稿を周到に用意すべきですが、ひとたび説教壇に上がった後は、準備した原稿ではなく、会衆の顔を見て語るべきです。
これは子どもたちに語る教会学校の礼拝説教をしたことがあれば実感することですが、子どもたちは自分たちの顔を見て話さない人の言うことを本能的に聞こうとはしません。本当は大人もそうなのですが、子どもはそれを素直に場の空気で伝えます。語りかける相手の顔を見ずに原稿を読み上げる説教は、言葉が上滑りするように流れていき、みことばの種がよい地に落ちることもないのです。
この点は落語からも似たようなことが言えます。落語家は、高座に上がるまでは、師匠の噺を見よう見まねに盗んで修行し、自分のネタ帖にびっしり書き込みをして準備します。しかし、いざ自分が高座に上がるときには、その頼りのネタ帖を置いていきます。ネタ帖を読みながらでは寄席の空気を読むことができませんし、第一そんな落語、お客もシラけて聞けたもんじゃありません。内容的には同じネタ帖にあることを語っているはずなのに、聴くとなると、こうも違うのです。
改めて説教を顧みるとき、ネタ帖を読みながらの落語のような説教が、いかに多いことか・・・。「日本の宣教が1%の壁を越えられないのは、教会の礼拝で、いのちのことばが語られないからである」という説教改革・礼拝改革の指摘は古くからなされていますが、これは、語る内容のみならず、語り方をも含めた指摘だと思います。
5. 宣教総論
【1】 宣教とは
「説教総論」でも少し触れましたが、「説教」は礼拝の場で語られるものであるのに対し、「宣教」はより広く、礼拝の説教をも含めて、今日の社会に対して、聖書に記された福音を生き生きと宣べ伝えるものと定義できます。
「今日の」という点は「説教」にも共通することですが、広く「社会に」ということで、キリスト者ではない者にも語るための語り方が、「宣教」では特に考慮されます。同じ地域に住む同国語の人々にとどまらず、他の地域に住む他言語・他文化の人々に対する宣教も含め、いろいろなケースを想定して、文化人類学など学際的な異文化コミュニケーションの研究成果も取り入れながら研究します。
【2】 宣教と説教の同質性
本節ではそういう学際的な成果をも取り込んだ個々の具体的な研究まで論及することはできませんが、一般論として「宣教する相手に応じて語るべき」というのは、聖書も述べる指摘であることを付言しておきます(第一コリント9章19~23節)。
他方で、たとえ自分とはまったく異なる民族に対してであっても、相手が同じ人間である限り、宣べ伝えるべき福音の核心は異ならない、というのも聖書の述べる真理です(ローマ1章16節・10章12~13節、第一コリント1章24節)。
そして、この宣べ伝えるべき福音、すなわち普遍的な宣教のことばというのは、すでに「説教」の項でも述べた、あの「福音」です。宣教と礼拝の説教とは、語る場や対象は異なっても、同じ福音を語る点で本質的に変わらず、また、同じほどに重たい務めなのです。
【3】 福音の宣教と文化の伝播の異質性
すべての人に伝えるべき同じ福音を明確に把握することは、同時にまた、「福音」とその他の余計なものとをふるいにかけて分離する役目も果たします。
二千年の宣教の歴史(それは教会の歴史でもあるのですが)を振り返るときに、いかに多くの宣教師たちが、意識・無意識を問わず、福音の宣教と併せて、自分たちの文化や文明を押し付けてきたことでしょう。もちろん、宣教された現地の社会にとって教育や医療の発展など益になることもありました。けれど他方で、現地の文化を破壊し、民族の尊厳を踏みにじった弊害もまた、否定できない事実です。大航海時代に中南米の破壊的な侵略に結びついていたカトリック宣教や、帝国主義列強の植民地政策に便乗して進められた世界的なプロテスタント宣教など。“Great Century”と呼ばれ、世界的に宣教の盛んだった19世紀は、皮肉にも植民地政策に後押しされた時代でもあったのです。
もちろん、「キリスト教文化と切り離しての宣教は難しい」という声は、一方であるでしょう。しかし、主イエスが「宣べ伝えなさい」とおっしゃった福音は、文化でデコレーションされたものではなかったはずです。むしろ、非常にシンプルなものであることが、パウロの言葉からもわかります。「私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した」(第一コリント2章2節)
そして、この宣教において、文化ではなく、本当の意味で福音を宣べ伝え続けるには、福音の記された聖書に絶えず立ち戻る真摯な姿勢が不可欠です。
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