2章2節 キリスト教史

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初版 2008年5月3日

1. 総論

 先に歴史神学の分類をみましたが、それらの多くは同じ教会の歴史をそれぞれの切り口から研究するために専門分化したもので、歴史の出来事としてはひとつであり、相互に作用しています。ですから、初めの段階では、なるべく本来のように統合して学習するのがよいと思います。そうすることで、教会の歴史は教理の歴史であり宣教の歴史であることを実感することができます。
 そこで本項では、統合した「キリスト教史」として二千年の流れを概観します。時代の区分方法は教会史家によって千差万別ですが、ここではペリカン『キリスト教の伝統 教理発展の歴史』(教文館、2006~2008年)の区分に準じて説明します。

 なお、次のWebページもご参照ください。
 Wikipedia 「キリスト教の歴史」「History of Christianity」「日本キリスト教史
 カトリック中央協議会 「カトリック教会の歴史
 日本正教会 「東方正教会の歴史

2. 教父時代の教会(0~600年)

 教会の歩みは、正典・組織・宣教方法などにおいて、ユダヤ教の連続のなかで始まりましたが、イエスをキリストと信じる点で、決定的に異なっていました。ユダヤ・キリスト教会は、北方、北東方、また南方(アフリカ沿岸からコプト地域)へと伸び、異邦人キリスト教会も広く地中海全域に宣教していきました。ローマ帝国は当初、教会をユダヤ教(公認宗教)の一派と見ていたので、地域的・散発的な迫害はありましたが、宗教的寛容を基本とする教会への対策は比較的柔軟でした。
 3世紀に入ると、国の衰退を皇帝礼拝の強化で回復しようと試み、これに抵抗する教会をより永続的・全国的に迫害しましたが、帝国周辺部の防衛などに妨げられて続かず、教会の信仰と組織を強化させる結果となりました。より大規模で全国的に展開された「大迫害」も結果的には成功しませんでした。ただ、教会側にも多くの殉教者と、さらに多くの棄教者が生まれ、棄教者については迫害後の教会への受け入れ問題に発展しました。教会は、外からユダヤ教の攻撃と帝国からの増大する抑圧を受け、内にはグノーシス派などの異端問題を抱えていました。ヘレニズム世界の共通基盤に立ち、「完成としてのキリスト教」を弁証するのが初期神学者の課題でした。さらに三位一体の神への信仰告白と、イエス・キリストの神性と人性が論点となり、哲学的傾向の強いアリウス派なども出てきました。
 その後、教会と帝国の関係は、コンスタンティヌス帝の公認宗教化と国家保護化を経て、後に国教化しました。また、教理の面においても、4~6世紀の総会議の諸決定や教父たち(アレクサンドリアとアンテオケの両学派など)の貢献で、正統派教会の教義が形成され、「古カトリック(公同的・普遍的)教会の3本柱」、すなわち、正典の結集、信条や信仰規準の形成、教職制の確立(司教の使徒的権威など)がなされました。
 本節の時期の神学者として、エイレナイオス、テルトゥリアヌス、アレキサンドリアのクレメンスとオリゲネス、アタナシオス、カッパドキアの3教父(バシレイオス、ニュッサのグレゴリオス、ナジアンゾスのグレゴリオス)、教皇レオ1世、アウグスティヌスなどがおり、多くの傑出した人材に恵まれました。また、修道制の勃興に貢献したアントニオスやパコミオス以後、6世紀前半のベネディクトゥス派修道会設立に至る霊性の流れは、霊的革新の一源流と言えます。

3. 東方教会(600~1700年)

 東方教会(ビザンチン教会)は、政治や文化の諸方面で西方とは異なる独自の道を歩みました。西方教会のように集権的政治体制ではなく、民族諸教会の相互独立を特色として、教父時代の教会の教義伝統と古典文化とが独特な手法で融和されました。
 世俗権力による教会支配を「皇帝教皇主義」と呼びますが、その皇帝のなかには優れた神学者もいました。人々の宗教生活においても、その地盤の深さが、ギリシャ正教会の宣教地域で実証されています。
 なお、東方教会と西方教会との分裂(1054年)は、権威やイコンを巡る論争、十字軍やトルコ勢力の侵略など、不幸な亀裂が多年にわたって複合したものでした。

4. 中世の西方教会(600~1300年)

 聖書のゴート語翻訳など熱心な宣教活動によって、ゲルマン諸部族の教会が誕生し、それにともない独自の文化創造も興りました。5世紀末、強大なフランク部族がローマ教会に従ったことは、教皇の権威下の宣教活動を興隆させ、普遍教会成立への契機になりました。カール大帝の戴冠は、教皇権と王権との相補強化や「キリスト教世界(corpus christianum)」と「ヨーロッパ」意識を象徴する出来事になりました。
 7世紀以降、地中海沿岸各地はイスラムの勢力下に収められ、「ジハード」(聖戦)を叫ぶ両陣営の声は、聖地奪還の激突(十字軍運動)になりました。教皇庁の改革や抑圧を試みる王権と、俗権による叙任禁止を命じる教皇権との確執が続き、教皇の対立抗争と相互破門が、逆にフランス王権下の、いわゆる「教皇のバビロン捕囚」を招きました。反面、教会の底流に、托鉢修道会(フランシスコ会とドミニコ会)運動や、教父時代から続いている神秘主義の流れによる霊的諸運動も盛んでした。
 中世は、カロリング・ルネサンス時代に続き、11~13世紀に至るスコラ学の活動期でもありました。アンセルムス、アベラルドゥス、トマス・アクィナス、ボナヴェントゥーラ、ドゥンス・スコトゥス、ウィリアム・オッカムなどの碩学を輩出し、学問と大学の形成・興隆に寄与しました。
 ヤン・フスなど改革の先駆者が活動するなか、「頭から爪先までの改革」を叫ぶ者は多かったのですが、数度の公会議が開催されても根本的な改革には至らず、ルネサンス文化の興隆をよそに、教会は霊的無力化と道徳的退廃に悩んでいました。

5. 宗教改革とその後の西方教会(1300~1700年)

 16世紀の宗教改革は、中世末期やその後の「カトリック改革」における内部改革を超えた運動で、「聖書のみ」「恵みのみ」「信仰のみ」「キリストのみ」「万人祭司」の原則に立っていました。
 聖書に立脚した改革を展開したマルティン・ルターと後継者メランヒトンなどのルター派。『みことばの明らかさと確かさ』を説いたチューリヒの改革者ツヴィングリ。ジュネーヴでの改革事業や『キリスト教綱要』を執筆したジャン・カルヴァンたち改革派。独自の路線を行くクランマーなどのイングランド宗教改革、ピューリタン運動など。17~18世紀に至ってその潮流の影響が顕著となった再洗礼派や聖霊運動派などの急進派。イエズス会とトリエント公会議によって体制内改革に乗り出したカトリック改革など・・・。
 ルネサンス文化、地理上の諸発見と地の果てへの航海、資本主義経済の勃興、教会と国家の分離と近代国家体制、科学技術の進展などが、改革によって生じた分裂を助長し、中世的統一を崩していきました。

6. 近現代の教会(1700年以降)

 ヨーロッパ中心だった教会体制が、世界教会的な宣教体制へと移ったのが、宗教改革後の時代です。アメリカ大陸のキリスト教化、アジア、アフリカ、オーストラリアへの宣教が、福音宣教に本来的な「人が住む地域運動」(ecumenical movement)を促しました。
 啓蒙思想は合理主義、理性主義、自由主義、不信仰の自由をもたらし、その批判主義は後に聖書批評の道を開きました。プロテスタント正統主義の教理的固定化を破ろうとする敬虔主義が起こる反面、後の無神論の先駆けとしての理神論も盛んになりました。
 18~20世紀の一連の市民革命は、世俗化(非キリスト教化)をさらに促進しました。他方、教会内には社会的福音運動やユニテリアン運動などの他、ウェスレー、エドワーズ、スポルジョン、ムーディなどの信仰復興運動の波が相次ぎ、19世紀は「宣教の世紀」になりました。
 そして、相対主義と紛争、グローバルな難問の山積する現代へと続きます。