3章3節 倫理学 - Ethics -

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初版 2008年6月8日

 狭義の組織神学(教義学)は「神はどういうお方で、何をなさるのか」を明らかにするのに対し、キリスト教倫理学は「人間の側が、神の恵みへの感謝と神への愛から、その全存在をもって何をなすべきか」を探究します。
 キリスト教倫理学は、教義学と区別されますが、切り離すことはできない一体関係にあります。キリスト者の倫理基盤・動機づけが、教義学の明らかにする啓示(神が罪人のために成し遂げてくださった救いのみわざ)に、愛をもって応答するところにあるからです。
 古来多くの神学者も、倫理的課題を十戒論の展開という形で教義学そのものに、あるいは信仰の内容論の叙述の後で第2部として扱っていました。時代によっては教義学と倫理学を分離する傾向もありましたが、そうしてしまうと、倫理学は基盤やあり方を失い、教義学も思弁的な抽象論に陥ってしまうことがわかりました。今では、教義学と倫理学の一体関係を強く主張したカール・バルトの影響などもあり、改めて関係性が意識されています。

 聖書の啓示に基づく倫理学は、神の恵みの救いに、愛をもって応じる倫理を一貫して説きます。
 キリスト者は、「神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた」(エペソ〔エフェソ〕2章10節)のですが、その良い行いのゆえに救われるのではなく、神の「恵みにより、信仰によって救われ」るのです(同8~9節)。主イエスの十字架の贖いによって罪赦され、主イエスの復活にあずかる者として聖霊によって新しく生まれてはじめて、主イエスが愛してくださったように互いに愛することができるようになります(ヨハネ13章34~35節)。律法の下ではなく、聖霊に導かれて歩むようになってはじめて、律法の禁じる肉の行い(ガラテヤ5章19~21節)を避け、御霊の実である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(同22~23節)を結ぶことができるのです。
 ローマ6章も、11節まで新生の恵みを説き、その後で「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません」(12節)と教えます。

 このように、キリスト教倫理学は、人間的博愛主義(ヒューマニズム)や福音的でない律法主義(行い主義)を退け、他方、「信仰告白としての行い」を伴わない放埓三昧の信仰(参照:ヤコブ2章)についても退けながら、日々キリスト者に次のように問いかけます。
 「神の愛と恵みに感謝しながら、どのように、みことばに生きるべきだろうか」
 「今、イエスさまなら、どうなさるだろうか」(WWJD=What Would Jesus Do?)

 主イエスが愛されたように、歩まれたように・・・
 (ヨハネ13章34節・15章12節、ヨハネの手紙第一2章6節)