3章1節 組織神学とは何か
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2版 2008年7月10日 初版 2008年6月8日
1. 意義
広い意味での組織神学は、神の語りかけ(啓示)をテーマごとに論理的に組み立てて、実践神学などに理論を提供する基礎研究の分野で、古くから「神学」と言う場合の多くはこの分野を指していました。
この組織神学に何を含めるかは、他の分野と同じように諸説ありますが、主に、教義学や信条学、倫理学、弁証学などを含める場合が多いようです。また、自然などの被造物からも、神の存在や神のみわざなどの一般的な啓示を、人間に具えられた理性によって自然に知ることができると考えれば、その啓示を論理的・系統的に組み立てる分野としての自然神学も、広義の組織神学に含めることができるでしょう。
2. 自然神学は啓示神学か?
組織神学は、神の語りかけである「啓示」を体系的にまとめていく分野であることから、特にその点を強調して「啓示神学」と呼ぶこともあります。
他方、「啓示」によらず、人間にそなえられた理性によって、「自然に」知ることのできた神の知識を論理的に組み立てていく分野として、「自然神学」(Natural Theology)というのがあります。
たとえば、大自然のなかで神の存在を感じるという経験は、よくわかると思います。その感覚を体系的な学問にしたのが自然神学で、自然科学や論理的考察などにより神の知識に至るというものです。特に、キリスト者でない人に聖書の神の存在を証明するのに有用で、二千年の間、多くのキリスト者に用いられてきました。
しかし、この自然神学には反対者が多く、しばしば懐疑的に扱われてきたのも事実です。
18世紀のヒュームやカントなどは、自然神学の存在論的証明の論理的欠陥を批判しました。
また、20世紀のカール・バルトは次のように批判しました。「罪のうちにある人間は完全に堕落しており、自然的理性によって神を知ることができなくなっているにもかかわらず、神のことばの啓示によらずに人間の理性によって神に到達しうるというのは、理性に偏り、理性を神とする新たな偶像礼拝に導くだけである」(彼は弁証学についても同様に述べます)
もちろん、主イエスの十字架の死と復活、キリストを信じることによる救いについては、神のことばによる啓示によらなければ知り得ない、というのは誰しも認めるところです(ゆえに、みことばの宣教は欠かせません)。
ただ、先に述べた、大自然のなかで神の存在を覚えるという感覚的な経験も、否定できないでしょう。実際、聖書では、大自然など、神のお造りになった被造物によって、神の存在は明らかにされており、人に弁解の余地はないと述べられています(ヨブ38~41章、詩篇19篇、使徒17章26~28節、ローマ1章18~25節など)。17世紀のトマス・ブラウンも、「神は2つの書物を著された。1つは『聖書』、もう1つは『自然』である」と述べて、この真理をうまく言い表しています。
では、神による啓示によらなくても、ある程度は神を知ることができるのでしょうか。トマス・ブラウンの比喩が正しければ、自然をはじめとする被造物も、やはり「神の書物」という意味では「神の啓示」といえます(この点、組織神学の啓示論も、「聖書」を「特別啓示」、「自然」を「一般啓示」と呼んでいます)。
とすると、被造物をとおして表される神の栄光を手がかりに、神が人間にそなえてくださった理性によって神を知るという自然神学も、聖書ほどに直接的ではなくとも、婉曲的な啓示を扱う分野として、「啓示神学」のひとつと言えるのかもしれません。
実際、現在の有力な見解は、「啓示によるか否か」という自然神学と啓示神学の境界線がぼやけてきていることを指摘しています。
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