1章2節 聖書緒論 - Biblical Introduction -
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2版 2008年5月3日 初版 2008年4月6日
1. 総論
聖書のそれぞれの書のアウトラインや内容、うんちく(いつ、どこで、だれが、どういうつもりで、どのように書いた?)などを研究し、聖書釈義や聖書神学をしていく際の端緒(入口)になる分野で、聖書概論(Introduction to the Bible)とも呼ばれます。多くの注解書では、個々の箇所の解説(釈義)の前に、序論部分で緒論的研究を展開しているのが一般的です。
19世紀以降、聖書を批評的に科学的に研究するようになると、以下に見る正典論や本文論などが本格化して、今では独立の分野を形成しています。それらをも旧来のように緒論に含めると、非常に専門知識やスキルを要する分野になってしまい、およそ入門(Introduction)とは言えなくなりますが、ここでは説明の便宜上、緒論に含めることにします。
なお、緒論の研究をサポートする分野として、聖書考古学、聖書時代史、聖書地理学などがあります。
2. 正典論
日本語「正典」、英語「canon」は、ギリシャ語「κανών」に由来します。もともと「測りざお」の意味でしたが、転じて「規準」を意味するようになり、「生活と信仰の規準」である「聖書」の文書群(文書リスト)に用いられるようになりました。
現在、プロテスタント教会の多くが「聖書(正典)」としているのは、旧約39巻、新約27巻、計66巻です。他方、カトリック教会は、旧約39巻の補遺と第二正典7巻を含めて、旧約46巻を正典としています(新約は同じ)。
この違いは、ルターやカルヴァンなど16世紀の宗教改革者たちが、カトリックの依拠する「ウルガタ」(ラテン語訳聖書)よりも、より源泉(原典)に近いとみられるヘブライ語正典(ユダヤ正典)に含まれるもののみを正典として受けとめたことによります。ただし、第二正典(プロテスタントでは外典〔アポクリファ〕)も、「聖書と同等に見ることはできないが、読めば有益で、良い書物である」(ルター)として、当時の翻訳聖書には収録されていました(『新共同訳 旧約続編つき』と同様の形態で)。プロテスタントで旧約39巻が定着したのは、ウェストミンスター信仰告白*1 などを受けて、特に19世紀以降、正典との区別の明確化や聖書の安価な頒布のために外典を削減して出版したところによるようです。
*1) 1章3節「一般に外典と呼ばれている書物は、神の霊感によるものではないから、聖書の正典の一部ではない。よって、神の教会においては何の権威もなく、人間による他の文書と少しでも異なるものとして承認されたり、使用されてはならない」
なお、カトリックの正典を、プロテスタントとの共同翻訳である『新共同訳 旧約続編つき』で確認すると、次のようになります(カッコ内はカトリックの依拠する「ウルガタ」〔ラテン語訳聖書〕本来の配置)。
【正典の補遺】 「エステル記」については、補遺部分としてではなく、ギリシャ語(七十人訳)に基づくロングバージョンのエステル記を1巻まるごと別に収録。「ダニエル書」の補遺は、「アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」(3章24~90節)、「スザンナ」(13章)、「ベルと竜」(14章)として収録。
【第二正典7巻】 「トビト記」「ユディト記」(以上2巻はエステル記の前に配置)、「マカバイ記第一・第二」(エステル記の後に配置)、「知恵の書」「シラ書」(以上2巻は雅歌の後に配置)、「バルク書」「エレミヤの手紙」(以上2巻はバルク書1巻にまとめられて哀歌の後に配置)。
【その他】 続編に収録されているギリシャ語(七十人訳)とラテン語(ウルガタ)に基づく「エズラ記」、「マナセの祈り」は、カトリックにおいても正典ではなく偽典(プロテスタントでは外典)ですが、伝統的にカトリック教会や英国国教会(聖公会)の礼拝において用いられてきたので収録されています。
以上、16世紀宗教改革以降の西方教会(いわゆる西側諸国の教会)のなかでの違いを見てきましたが、それ以前の正典の論争はどうだったのでしょうか。なぜ旧約39巻(または46巻)、新約27巻が、他の多くの書から取り分けられて、正典となったのでしょうか。どのような基準で、いかなる権威のもとに、正典として認識されたのでしょうか。その歴史や基準について研究するのが「正典論」です。
この点、どの文書を正典とするかは公会議などにおいて認められてきた、というのが歴史的な見解です。
しかし、このホームページの見解、「聖書は、神のことばの記された、神からのラブレター」という見解からは、人間の会議である公会議に、「神のことば」としての権威を付与したり、どれが「神のことば」であるかを決める権限があるのだろうか、という疑問が生じます。
これについては、「公会議において明らかにされた」、すなわち「祈りのうちに臨んだ神のご支配なさる公会議において、霊感された文書を神が教えてくださった」と考えることができます。「聖書」を「神のことば」と告白するのと同様、聖霊によって信じるキリスト者の、経験則的な確信によって導かれる理解です。
3. 本文論
本文論は、聖書本文を決定するための資料となる聖書の写本、古代訳本の研究、本文批評のための理論と実際からなっています。
このなかで本文批評(Textual Criticism)は、現在残っている複数の異なる写本や古代訳を比較研究して、「原典聖書」(オリジナル)の本文を明らかにする(復元していく)研究です。かつて「下等批評」(Lower Criticism)とも呼ばれていましたが、研究価値に対する誤解を招く表現でもあることから、今ではもっぱら「本文批評」と呼ばれています。
4. 各論
聖書のそれぞれの書の、中心主題、梗概、著者問題、著作年代、宛先、執筆事情、統一性、依存関係、思想的・神学的特色などを取り扱います。その手法として、様々な批評学を用います。かつて「高等批評」(Higher Criticism)とも呼ばれていましたが、下等批評と同様、今では死語になっています。
手法のひとつに、「伝承史」(Tradition Criticism)というのがあります。聖書本文の背後にある伝承を様々な角度から解明して考察することによって、最終的に聖書がどのようにして形成されていったのかを探究する方法です。伝承史はさらに、言い回しなどの「様式」や「類型」を問いながら、成文化される以前の、口頭伝承の段階にまで遡って成立・展開の過程を解明する「様式史」(Form Criticism)や、伝承が文書化してどのように現在のようになったのかを解明する「編集史」(Redaction Criticism)などを含めることもあります。
これらの手法は、特定の著者の一回的な創作活動によって成立したのではなく、小さな口頭伝承の断片が繰り返し伝達される過程で加工され、他の断片と結合されて、現在の聖書本文へと徐々に形成されていったという文書仮説を前提にしています。そのため、仮説に立脚している限界を認識したうえでなされるべきことが、学者の間でも共通理解となっています。
なお、これらの批評学は、聖書釈義(聖書解釈学)や聖書神学にも利用されます。たとえば編集史の場合、編集者(聖書記者)はそれぞれの神学的関心に基づいて資料を取捨選択・修正・配列したという仮説(前提)に立ったうえで、それぞれの編集部分に着目して各書の神学思想を解明しようと試みます。
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