聖書通読のすすめ
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翻訳聖書の選び方
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通勤・通学など移動中に読むことの多い方には、『バイブルmini』(新改訳)や、『バイブルキューブ』(新共同訳)がおすすめです。また、紙媒体ほどの一覧性はありませんが、聖書ソフトのテキスト・データを、それぞれの携帯端末に合わせて加工して使う方法もあります。
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家で読むことの多い方には、『チェーン式聖書』(新改訳)や、『スタディバイブル』(新共同訳)がおすすめです。聖書本文と同じページに語句解説などがあるので、別に参考書を開く手間が省けます。ただ、何度も通読していると、これらの解説ではモノ足りなさや解釈の相違を感じてくるかもしれません。そのときには解説なしの聖書に乗り換えて、各種聖書辞典・注解書で学んだことや礼拝説教のメモを聖書に書き込みながら、自分の“注釈聖書”にしていくのもいいと思います。なお、辞典や注解書については「聖書通読のツール」をご覧ください。
聖書通読の骨(コツ)
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毎回、「主の祈り」を祈ってから読み始め、「使徒信条」を告白して終わります。
また、「Jesus loves me」などの賛美歌を加えるのもよいでしょう。
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わかっても、わからなくても、忙しくても、心騒ぐときにも、言い訳せずに読み進めます。
特に最初は、流し読みになっても全体を把握する感じで。※
※ 参照: M. J. Adler & C. V. Doren 『本を読む本』 講談社学術文庫 1997年
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こうして、たましいの「日ごとの糧」を祈り求めて読み続けるうちに、心耕され、
聖書のことばが五臓六腑にしみわたってきます(参照:ヨハネ14章26節、ルカ24章45節)。
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一日のうち「この時間は聖書を読む」と決めて予定に組み込むと、失念・ため込みを防げます。
たとえば、起床後の10分・就寝前の20分、通勤・通学時間、朝トイレに入っている間など。
所要時間の分、テレビやネットの時間を削るのが効果的です。1か月ほどで習慣化してきます。
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電車・車の移動中や家事などで手が離せないとき、また、読むのが負担なときは、聞いて
“通読”するのもよいと思います。朗読CDなどは「聖書通読のツール」の「聖書朗読」をご覧ください。
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2人3人で励まし合いながらすると、めげません。通読サークルや教会全体で取り組んだり、
メールなどを使って「きょうは△章まで」とお互い励まし合うのもよい方法です。
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心に留まったところに線を引き、できればノートやメモ帳に日付を添えて書きとめます。
(旧新約でページや冊子を分けておくと、読了後に自分だけの筆写ダイジェストバイブルになります)
次の日に昨日のノートを読み返すと、その聖書のことばが心に残ります。
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ちなみに、長期記憶化するには、初回を基準に、翌日→1週間後→3週間後→7週間後の、4回復習するのが
よいそうです。通読表を見ながら、1週間前に読んで線を引いた箇所にサッと目を通すだけでも違います。
意外と忘れててガッカリするかもしれませんが、記憶すべき大切な情報として改めて脳に刻み込まれます。
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アウトプット(書き出し)にブログなどを使えば、移動中に携帯端末で読み返すこともできます。
聖書のことばに感想などを添えてシェア(公開)すれば、訪れる読者の励ましにもなります。
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数年続けた後は、文語訳や英訳など、他の訳でも通読してみると、新たな発見があると思います。
また、速いペースで続けた後は、注解書を脇に一度じっくり取り組んでみるのもよいでしょう。
古来の写本作業のように書き写したり、朗読してみるのもおすすめです。
手を動かして書いたり、声に出したりするのは、脳科学的にも有効な記憶(心に刻む)方法のようです。
なぜ聖書通読か?
聖書の正しい読み方は「身読」(embodied reading)*1、つまり、素直に聖書のことば(みことば)に生きるという読み方です。みことばに生きるには、まず主の御前に静まり、聖書全巻から語られるみことばに聴かなければなりません。聴かないでみことばに生きることはできませんし、聴かないままでクリスチャンとして歩もうとしても独りよがりの信仰になってしまいます。この状態は、あたかも服を着ずに(ガラテヤ3章27節)、一日の仕事に出かけるようなものです。*2
*1 ハウエル「キリストは聖フランチェスコのようであった」『聖書を読む技法』 新教出版社 2007年
*2 「聖書全体のなかで聴く」ということがなければ、その日その日に出会う個々のみことばに本当の意味で生きることも難しいのです。また、気づかないうちに独りよがりの信仰に陥る「霊的な生活習慣病」を防ぐためにも、聖書全巻に聴く習慣を疎かにすることはできません。さらに、平時の聖書通読の積み重ねが、迫害時に聖書を禁じられたときにも、みことばを黙想し、信仰を支えるたすけになります。
ちなみに、聖書が現在のように一人ひとりの手に渡るようになったのは、教会二千年の歴史のなかでも、わずか二、三百年のことです。グーテンベルクの活版印刷というIT革命を経て、書物が一般の人たちにも普及し、識字率も向上した結果です。それまで一般の人たちが聖書にふれる機会といえば、教会の礼拝などで聖書のことばを耳にするくらいでした。現在でも、経済的な理由で識字率の高くない国や、キリスト教を禁圧する国などでは、自分の聖書を自由に読むのが難しい環境にあります。こうして歴史や地域を見渡すと、日本を含む今の先進諸国ほど聖書を読むのに恵まれた環境はほかにないことに気づきます。
しかし他方で、キリスト者にとって聖書通読は、したいのに挫折してしまう悩みの種として根深いことも事実です。挫折の理由は様々でしょうが、通読するための方法やツールの乏しさも一因と考えます。通読は、いわば長旅にたとえることができますが、地図を持たずに行くと我が身の立ち位置を見失うように、通読表を持たずに通読することも、よほどのベテランでない限り、無謀な旅と言えます。飛行機のパイロットが必ずフライトプランを立てるように、通読にもプランナー(通読表)が必要です。
では、そうした地図(通読表)を持ったうえで、どこに向かうのか? すなわち、なぜ聖書通読か? その目的は?
この問いの答えは、冒頭の「みことばに生きる」に戻るのですが、みことばに生きる(目的)ために、聖書通読(手段)をするのです。みことばに生きることが、主を愛する献身の歩みだからです(参照:ヨハネ14章23節、第一ヨハネ5章3節)。それが、私たちの罪のために十字架にかかってくださった主のご愛に応えて生きる、礼拝の生涯だからです(聖書通読→みことばに生きる→主を愛する→礼拝の生涯)。
私たちは、「生きることは礼拝、死ぬこともまた益です」(参照:ピリピ〔フィリピ〕1章21節、ダニエル6章)と告白し、主日(日曜日)に礼拝に集い、十分の一献金を献げます。それと同じように、私たちの生涯、すなわち時間も、献げたいと思うのです。祈りとみことばのために・・・。
最後に、次の一節を引用して終わりたいと思います。
「読むよりも実行、みことばは実践してこそ価値がある。そのとおり。けれども、みことばの不思議さは、ただ読むだけで格段の違いをもたらすのである。ただ読むだけ、と自信なさそうにうなだれることはない。ただ祈るだけという卑下も不要なように、である。祈りとみことばは、そのままでなかなか力がある」 〔下川友也『聖書通読にチャレンジしよう!』より〕
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