日本の福音宣教のため、翻訳聖書の自由な利用を祈り求めます
BibleStyle.com
初版 2007年6月3日 第2版 2008年1月26日 第3版 2008年1月29日
【1】 問題の提起と所在
「聖書通読のツール」などを編集して実感したのですが、英語圏はじめ諸外国では、教会で使われている公同の翻訳聖書であっても、かなり自由にインターネットで利用することができるのです。そもそも、人の立法した法令でさえパブリックドメインであるのに、翻訳とはいえ神のことばに著作財産権による制限を設けるあり方は、はたして神に喜ばれることなのか、少し疑問になりました。
とはいえ、インターネット等で自由に利用できるとなれば、聖書の頒布数に打撃を与え、著作権料(印税)収入が減少するのではないか、そうなると、キリスト教がマイノリティである日本にあって、多大な労と財のかかる翻訳作業をどうやって支えていくのか、という問題が生じます。
「みんなに聖書の福音を宣べ伝え、救われる人が起こされるように」というのが、聖書翻訳の働きのそもそもの目的です。著作権料(印税)収入を得るためではありません。この点は誰もが認めるところです。しかし、それでも「聖書のことばの宣教」に資する自由な利用に踏み切れないのは、翻訳・頒布のための財的基盤をどう確保するか、という問題があるからです。逆に考えると、この点を解決できれば、自由な利用の道筋も見えてきそうです。
【2】 著作権料(印税)収入について
では、財的基盤の確保において一番懸念されている著作権料(印税)収入についてですが、インターネットなどでの自由な利用(商業利用を除く)は、本当に聖書の頒布数に打撃を与え、収入減少につながるのでしょうか?
この点、製本された聖書の利便性からすると、頒布数(収入)の減少にはつながらないと考えます。デジタル機器のディスプレイが紙媒体の一覧性・汎用性に到達するには、まだしばらくの時間がかかるでしょうし、プリントアウトするにしても、テキストの量が多くなればなるほど、かさばって不便です。ちゃんと聖書を通読しようと思う人にとっては製本された聖書が一番便利であることに変わりはなく、聖書の購買を控える方向には向かわないと考えます。(注※ ただし、この見解は、「日本のキリスト者が聖書に親しみ、日々身近に置いて通読する」という前提に立っています。この前提はとり得ないという場合には妥当しなくなるのですが、そうなると今度は、より根本的な別の問題に発展していきます)
また、自由な利用を促進することによって聖書に対する関心が広範にわたり、それが聖書の頒布の裾野の広がりにもつながるという、よい循環が生まれる可能性を見込めます。そうなると、一見収入減をもたらすと思われる方策が、実は一番有効な広報であるかもしれません。効果のないところに広告費を注ぐより、みことばの宣教につながる自由な利用の可能性を探るほうが、より効果的な「選択と集中」と言えるでしょう。
頒布数の減少の可能性は少なく、むしろ、相乗的な広告効果による頒布数の増加が見込め、財的基盤にも資する・・・。この予測どおりになるかどうかは、たしかに実際やってみなければわかりません。しかし少なくとも、どのような効果が見られるのか、試験期間を設けて市場データを採取するなどすべきでしょう。もし、マイナスの可能性だけを見て、実際のデータ収集もせずに、宣教へのチャレンジに二の足を踏むようなら、それは主の御前に怠慢と言うほかありません。
【3】 ファンドの強化について
財的基盤の確保としては、著作権料(印税)収入以外の要素もあります。
現在、多くの教会で使われている主な翻訳は、日本聖書協会と日本聖書刊行会から出版されています。この両団体を、現在以上にキリスト教界全体で支え、ファンドの運用や献金によって財的基盤を確保し、著作権料(印税)一辺倒のスキームから脱却する方策が考えられます。2つの団体に分かれていると支援が分散されるということであれば、合併ということも考えられるでしょう(ファンドの合併およびネット上での聖書本文の公開につき、米国のIBS-STLの例を参照)。
この点、献金によるサポートについては、日本のキリスト者全員の責任です。それを実行すればよいのです。
他方で、ファンドを変える、特に合併ということになると、組織に関わっている方々の人間的な事情もあり、なかなか難しいかもしれません。たしかに政治の世界であれば、そういう考慮も重要になります。しかし、主の働きにあっては違います。もし、財的基盤という本来的でないことのために、本来の目的(聖書のことばの宣教)のためになることが妨げられているのなら、その問題解決のためには変革を厭うべきではありません。
かつて、「聖書に立ち返れ」という宗教改革の思想を普及させるために活躍したのは、しばらく前に発明されていたグーテンベルクの活版印刷(古典の情報革命)でした。いま私たちは、そのとき以来の情報革命のなかにいます。ところが、もし現代の宗教改革(リバイバル)が起こっても、「いえ、著作権保護により制限されていますから」と、聖書のことばを縛るようなことがあるとしたら、どうでしょうか?
もちろん、「現代の宗教改革(リバイバル)なんて起こらないさ」とおっしゃる方には説得力のない話です。しかし、少なくともこのように教会史や聖書の事例を“預言者の声”として与えられているのです。それでもなお変革を厭うなら、主は、既存とは別のところに働き人を見出し、現代の宗教改革にお用いになるかもしれません(参照:エステル記4章14節)。
【4】 具体的な利用のあり方
さて、以上、財的基盤の確保の問題について大きく2つに分けて総論的な検討を加えてきましたが、次は、実際に一歩を踏み出す決断をしたとして、具体的に利用のあり方をどうするのか、という各論的な検討に進んでみましょう。この点は、「総論賛成、各論反対」というように、特に議論の尽きないところかもしれませんが、ここでは例示的に以下の4つを挙げます。そのうえで、段階的に 1. → 2. → 3. → 4. と進むのがよいと考えます。
- 著作財産権を保持する団体のウェブサイトで全文閲覧を可能にして、各サイトからリンクすることによってネット上での聖書全文の自由なアクセスを実現する。
- 商業利用の場合を除いて、インターネット上での引用制限を撤廃または緩和する。
- 著作財産権は留保したうえで、商業利用の場合を除いて、自由に閲覧・複製・配布(紙媒体も含む)を認める。
- 著作財産権を放棄して、パブリックドメインにする(先送りしているうちに、50年の著作権保護期間の終了を迎えるほうが先か?)。
【5】 「神のことばを第一に」という決断
課題は多いです。しかし、少し冷静になって考えれば、「しょせん著作権法の課題にしかすぎない」とも言えます。著作権法は、歴史のスパンからすれば印刷技術の普及したごく最近に人間の定めた決め事にしかすぎず、自然法則でもなければ、神の法でもありません。自然災害などとは異なり、実は、人間の叡智と英断によって解決できる程度の課題でしかありません。
近い将来、教会と献身的なキリスト者、ファンドによって、教会で使われる公同の翻訳聖書が自由に利用できるようになることを期待してやみません。もしかすると、それが、宣教の難しい日本にあって、NCCやJEA、ギデオン協会など諸団体がまず取り組むべき象徴的なことなのかもしれません(「神のことばを第一に」という意味で)。そのためにも、日本に置かれているキリスト者の法律家やビジネスマンなど財界の使命は重大で、協力は不可欠と考えます(VIPインターナショナルの今後の宣教姿勢にも期待します)。
最後に、2008年に新改訳聖書の著作財産権が新改訳聖書刊行会(非営利法人)に帰属しました。 同法人が、祈りのうちに、新改訳聖書を自由な利用(商業利用を除く)のもとへ置く決断へと導かれますよう祈ります。また、祈りと献金によってそれを支える人々も起こされますように。なによりも主が、最善へと導いてくださることを信じます。祈りの応えとして、「山」(マタイ21章21~22節)を動かしてくださると信じます。
※ 翻訳聖書の自由な利用について、ご意見・ご感想などございましたら、どうぞ メール でお送りください
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