聖書の正しい読み方は「身読」(embodied reading)、つまり、素直にみことば(聖書のことば)に生きるという読み方です。みことばに生きるには、まず主の御前に静まり、聖書全巻から語られるみことばに聴かなければなりません。聴かないでみことばに生きることはできませんし、聴かないままでクリスチャンとして歩もうとしても独りよがりの信仰になってしまいます。この状態は、あたかも服を着ずに(ガラテヤ3章27節)、一日の仕事に出かけるようなものです。
しかし他方で、クリスチャンにとって聖書通読は、したいのに挫折してしまう悩みの種として根深いものであり、この通読表をみなさんに使っていただくようになってからの反響の多さも、それを物語っています。
では、なぜ挫折してしまうのでしょうか?理由は多々あるでしょうが、通読するためのツールの乏しさも一因と考えます。通読は、いわば長旅にたとえることができますが、地図を持たずに行くと我が身の立ち位置を見失うように、通読表を持たずに通読することも、よほどのベテランでない限り、無謀な旅と言えます。飛行機のパイロットが必ずフライトプランを立てるように、通読にもプランナー(通読表)が必要です。
では、そうした地図(通読表)を持ったうえで、どこに向かうのか?すなわち、なぜ聖書通読か?その目的は?
この問いの答えは、冒頭の「みことばに生きる」に戻るのですが、みことばに生きる(目的)ために、聖書通読(手段)をするのです。みことばに生きることが、主を愛する献身の歩みだからです(ヨハネ14章23節、第一ヨハネ5章3節。聖書通読→みことばに生きる→主を愛する)。それが、私たちの罪のために十字架にかかってくださった主のご愛に応えて生きる、礼拝の生涯だからです。私たちは、「生きることは礼拝、死ぬこともまた益です」(参照:ピリピ1章21節、ダニエル6章)と告白し、主日(日曜日)に礼拝に集い、十分の一献金を献げます。それと同じように、私たちの生涯、すなわち時間も、献げたいと思うのです。祈りとみことばのために・・・。
最後に、次の一節を引用して終わりたいと思います。
「読むよりも実行、みことばは実践してこそ価値がある。そのとおり。けれども、みことばの不思議さは、ただ読むだけで格段の違いをもたらすのである。ただ読むだけ、と自信なさそうにうなだれることはない。ただ祈るだけという卑下も不要なように、である。祈りとみことばは、そのままでなかなか力がある」
下川友也『聖書通読にチャレンジしよう!』より