ハガイやゼカリヤの預言により神殿が再建された後、エズラやネヘミヤの改革と重なるような時期にマラキは活動しました。
この預言書の特徴は、神と民との対話形式で記されていることです。しかも、それはかなり不穏なやり取りで、民の不平はとどまるところを知りません。
主 「わたしはあなたがたを愛している」
民 「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」(1章2節)
主 「あなたがたは、あなたがたのことばで主を煩わした」
民 「どのようにして、私たちは煩わしたのか」
「悪を行う者もみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのか」(2章17節)
主 「あなたがたはわたしに、かたくななことを言う」
民 「私たちはあなたに対して、何を言いましたか」
「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう」(3章13〜14節)
このようなかたくなな民に対して、最後の4章では、厳しい警告がなされます。
「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる」(4章1節)。
そして、最後は約束です。
「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」(4章5〜6節)。
注) 新改訳の4章の内容は、新共同訳の3章19〜24節に該当します。
このようにして旧約聖書は閉じられ、時は流れ、バプテスマのヨハネが現れて「預言者エリヤ」の役を果たすことになります。
民の「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」(1章2節)という不平に対して、主は応えられます。「わたしのひとり子を与えるほどに」(ヨハネ3章16節)。