ゼカリヤ書は12章から黙示的な内容になります。終末を示す「主の日」を表す「その日」ということばが、12章に7回、13章に3回、14章に8回も使われていますから、印をしてみてください。
「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」(13章1節)。「その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる」(14章8節)。これらは黙示録の新天新地の光景、「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた」(黙示録22章1〜2節)を思わせます。
あるいは「その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある」(14章6〜7節)は、「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである」(黙示録21章23節)を連想させます。
「主の日」。それは黙示録同様、ゼカリヤ書においても、「主は地のすべての王となられる」(14章9節)日です。私たちは、毎週、主の召集による「主の日」に、その日を待ち望みつつ礼拝をささげます。あなたの「主の日」は、主を王とする日でしょうか。