主は、貧者を虐げる者たちをご自身の正義に立ち返らせるために、あえて飢饉の苦しみをお与えになったが、それでも彼らは悔い改めなかったと言う。1節では「彼女ら」と女性たちもまた社会正義に対して責任があることを語られる。決して家長や夫ら男性のみが、社会を担っているわけではないからである。
ベテルもギルガルも礼拝所があった場所である。つまりここでは礼拝をすることによって罪を犯せと言っているのである。それは5節にあるように、彼らは礼拝行為は守っているが、そこでなされているのは自分の献げ物を知らせるために触れ回ること、そのほうがおいしいからというので自分たちで勝手に判断して焼いた種入りのパンを献げることなど、神が望んでいない礼拝を自分たちで好き勝手に行っているという指摘である。しかし主が望んでおられるのは外面の礼拝行為ではなく、主に従いゆく姿勢をもって礼拝に参加することである。
5節で言われているのは、もはや礼拝する場所を求めるな、ということである。そして、これまで繰り返されてきた社会正義に対する注目は、「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ」(24節)という言葉によって最大限に強調される。つまり、生き方において、日々において絶え間なく神を礼拝し、正義を求める人生を送るようにと語られている。流れる川が激しく動き、洗い流し続けるように、神が求めておられる正義とは、定まった価値観や決められた法的義務というのではなく、常に新しく更新され続け中断することのない社会全体の働きである。あきらめたり目をそらすことなく活動し続ける、人々の群れである。
「神の国はことばにはなく、力にあるのです」(第一コリント4章20節)。理念的な正義、口先だけの正義ではなく、実際に言葉によって押し出されて実践していくとき、神の国が実現するのである。