アモスは預言者ではなく、「牧者」(1節)として紹介されている。テコアという田舎町出身ということも含め、彼は職業祭司や宮廷・在野の預言者などとは違い、普段は信徒として働きをしていたと思われる。ホセアと同じく、北イスラエル王国末期の繁栄したヤロブアム2世の統治時代に活動した人物である。
「叫び」(2節)は、アモスが頻繁に用いる獅子の吠える声である。彼が聞いた神の声は、悪に怒り吠えたける獅子のごとき叫びであった。「主はこう仰せられる」という言葉が繰り返されるが、これはアモスが自分の憤りを語っているというだけではなくて、神ご自身が激しく語っておられることを強調しているのである。
1章ではまず近隣諸国の戦争犯罪について罪状が述べられる。共通するのは、各国が以前はイスラエルと何らかの協定関係にあったにもかかわらず、それを尊重しなかったということである。語り手アモスは戦場の風景を見ており、イスラエルの民が苦しめられている様を間近に見ていることをうかがわせる(13節)。神は悪に対しては柔和な声で語りはしない。
主の叫び、悪の告発はイスラエルに対してもなされる。特に、背きの罪とともに、弱者を虐げて、彼らをくいものにしていることについて厳しく指摘されている(6〜8節)。
9節以下で語られているのは、そもそもイスラエル自身もかつては弱い者であり、それを助けてくださったのは神ご自身であったことが確認される。それなのに、今やその恵みを忘れて、神の御言葉を聞こうとせず(12節)、人々を虐げる諸国と同じ振る舞いをするイスラエルに対して、神は決してお見逃しにはならないのである。
マタイ25章41〜45節は、神を信じると言った者たちが、神の民として行うべき隣人愛を実践しなかったとき、神ご自身から厳しく罰せられることが語られている。キリスト者もまた、社会正義に対して無関心であることはありえない。
このように主がイスラエルに対して特別な厳しさで罰を与えようとされるのは、彼らが神に選ばれた民であるからだと言う(2節)。選びの民に与えられたのは繁栄の特権だけではない。むしろ、神がともにいてくださり、導いてくださるというなかに、約束の結果として繁栄が与えられたのであった。それゆえに、罪に対しても約束どおりに、厳しく罰せられるのである。
預言者がそのような神の御言葉を語ることは、選択の余地がないほどに当然であることを、アモスは語る。3〜8節で語られる様々な状況は、すべて選択の余地がなく、起こりうる結果である。
もし、私たちが神の御言葉を本当に聞いたのであれば、それが悪を指摘するものであれば、それを沈黙し続けることはありえない。ことに、説教者はそれが本当に神の御言葉として語られたものであれば、獅子の吠える声を聞いて抗うすべもなく怯えるように、語らないではいられないはずである。