虫が嫌いな読者にとっては、想像するのもおそろしい。いなごとばったの大襲来である。イスラエルをおそった害虫の大群は一匹一匹が巨大で堅く、日本のものとは違って佃煮にして食べることもできない。彼らがむさぼり土地を荒らす有様は、軍隊の襲撃にたとえられている(6節)。また、大火が焼き尽くしたように根こそぎにしたとも語られる(19節)。
このような大災害の起こった時期について、他の書と異なり王の治世について記されてはいないが、おそらくは紀元前5〜4世紀ごろと推測されている。
預言者はこれを単なる自然現象として片づけずに、神の御手が働かれており、何かこれから起こる恐ろしいことの前触れとして見ている(15節)。この「主の日」が救いなのか破滅なのかは語られていない。しかし、預言者は将来がわからないこのときにこそ、主によりたのみ祈りを献げるべきであると語る(14節)。同時に、この未曾有の危機に対して主がどのように神の民に働いてくださるのかを後の時代にまで伝え続けよ、と希望の命令もなされている(3節)。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(ローマ12章12節〔新共同訳〕)。主に期待し祈ろう。
注) 厳密には、4つのイナゴとバッタ類は、律法の規定上食べてもよい生き物(カシュルート)である(レビ11章20〜23節)。レビ記の規定があることからも、イナゴ類を食す習慣自体は存在したと考えられる。実際、バプテスマのヨハネは、イナゴと野蜜を常食としていた。ただ、乳と蜜の流れる祝福の地に入植したイスラエルの民が、他にも豊富な食材のなかで、なおもイナゴを食していたかどうかは不明である。なお、災害を引き起こすのは、実はイナゴではなくて、イナゴと区別するのが難しいバッタの変異種である。食べることができるのは群れない昆虫であるから、どちらにせよ、ヨエルの時代に襲撃してきた害虫は食べることができなかった。
ヨエルは、イスラエルの不正を告発してはいない。何か具体的な大きな罪のために、この災害が起こったとは記されていない。むしろ、切なる祈りをもって神に助けを求めるよう訴える。ここで求められているのは、より一層本質的な事柄への注目であろう。神の前にただ無力な者としてへりくだり、「着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け」(13節)と言われる。他方、神が恵みと祝福をお与えになるのは、民の断食祈祷のゆえというよりは、神の自由なお働きであるとも語られる(13〜14節)。
そしてついに、主が憐れんでくださり、いなごの災いを去らせてくださったこと、また復興の約束をしてくださったことが告げられる(19〜27節)。
28節以下は、使徒2章16節以下によればペンテコステの日に成就したと語られている。すべて主に信頼し救いを叫び求める者に対しては、一切の差別なく(異邦人すらも!)、神の力が聖霊を通して与えられたのである。これもまた、「災害からの救い」から、より本質的な「罪からの救い」という問題への深化が語られているように思う。
この章では、諸国民の罪についての裁きが語られる。特に注目されているのは、子どもたちを奴隷として売買した罪である。もはや主の裁きはイスラエルにとどまるのではなく、全世界に対して語られる。農地の回復は同時に裁きの日が近づいていることを語る(13節)。いなごの災害と併せて、黙示録9章の終末の世界を思わせる。しかし、主はそのときも変わらず神の民にとって「避け所」「とりで」(16節)となる。特に重要なのは「主はシオンに住む」(21節)である。主は逃れ場として離れたところにおられるのではなく、すぐ近くに、その民のただなかにともにおられ、彼らを守り導いて下さる。この約束は主イエスによって実現した。「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28章20節)。