7節の「預言者は愚か者、霊の人は狂った者だ」は、偽預言者がはびこった、ということではない。続く7節後半の「〜〜のため」、民が神の言葉を伝える者たちを愚か者、正気を失った者として扱ったということである。主を信じない人々の間では、神の正義を宣言し、不道徳ゆえの破滅を預言する者は、語る内容の正しさにもかかわらず、きちんと評価されず喜ばれなかった。
しかし預言者であるホセアは自らを、朝の光を待ち望み、敵の接近を知らせる見張り人であると語る(8節)。たとえ、人々が聞きたくないことであっても、破滅をもたらすものが近づくとき、御言葉の働き人は公に警告しなければならない。同時に神の人は、それがどれだけ人々に評価されなくても、神は必ず報いてくださることを信じ、待ち望む。「その日には喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです」(ルカ6章23節)。
1節では、かつてのイスラエルの姿は美しい表現で語られている。祭壇を増やしたということは、それだけ礼拝場所を増やしたということである。彼らの初めの動機を想像するに、おそらくはそれぞれの場所で、神を礼拝したいという情熱があり、その結果多くの場所で礼拝所が建設されることになったのではないだろうか。しかし、そのような行為には二心があることを主は見抜いておられた。心から主お一人を礼拝するのではなく、その方の語る正義を実行するのでもなく、外面的に神殿を奉ることで十分に信仰をあらわしていると自己満足していたのではないか。
教会はどうだろうか? もしキリスト者が日曜日の礼拝を守ることや、様々な地域に礼拝堂を建てることによって満足し、日頃の生活のなかでは正義を求めて苦しむ人に対して無関心になってはいないか? あるいは自分が苦難に陥ったとき、結局のところ自分の努力によって築いた能力や財産が自らを助けると思って安心してはいないだろうか? 「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラテヤ6章8節)。
この章では、神とイスラエルとが親子の関係で描かれている。ある注解書によれば、この預言がなされたとき、ホセア自身は10代の子どもたちの親としての体験をしていただろうと言う。しかも彼の妻は不倫のため、おそらく長い間家から離れていたので、シングルファザーとして3人の子どもたちを苦労して育ててきたのだろうと言う。そのような経験を通して表現されているのは、親が悩み苦しみを覚えながらも、子を慈しんで見守り育てるように(3節)、神もまたイスラエルの親として民を愛されたということである。4節の「優しく」(新改訳)は意訳で、「身をかがめて」(新共同訳)のほうが原意に近い。神は自ら、かがみ込まれ、身を低くして、イスラエルのお世話をしてくださった。
しかし、それにもかかわらず、彼らは恩知らずにも反逆したのであった。それに対して神は、どれだけ反逆しようとその愛ゆえに見捨てることができないと言われる(8節)。放蕩息子を変わらず愛し、家に帰ってきたとき喜び迎え入れてくださる父なる神の姿がある(ルカ15章20節)。