「羊の群れ、牛の群れを連れて行き、主を尋ね求めるが、見つけることはない。主は彼らを離れ去ったのだ」(6節)。羊や牛はなだめの供え物の犠牲であった。しかし、御言葉は、民の背信の罪が、単に多くの犠牲を儀式的に献げることによっては贖われないことを示している。
「彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう」(15節)。上っ面の謝罪ではなく、心からの悔い改め、主を求める切なる思いが起こされるようになるまで、主は応えてくださらない。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(第二コリント7章10節)。
「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」(マタイ9章13節、12章7節)と主イエスがおっしゃるのはこのホセア6章6節である。「あわれみ」はヘブル語では「ヘセド」と言い、特に、神の限りない慈しみ、愛を示すときに用いられる重要な言葉である。
しかし、神からの限りない慈しみ・誠実に対して、イスラエルの民は、悔い改めてはまた背きの罪を犯し続けるという歴史を繰り返し続けた。「あなたがたの誠実〔ヘセド〕は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ」(4節)。1〜3節の悔い改めの美しい祈りは、それが実を結ばずに再び同じ背きの罪を繰り返すとき、外見上のみの空しいものとなる。
「全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ」(6節)。外見上だけのキリスト教的な生活に陥ることなく、神を愛し人を愛し(マルコ12章33節)、神様が望んでおられる最も根本的なものを逃さないようにしたい。
「彼らのうちだれひとり、わたしを呼び求める者はいない」(7節)。神がその民をご自分に立ち返らせ、救おうとされている一方、民のほうでは相変わらず地上の権力を頼みとし、あるいは宴会など快楽によって現実逃避をする。「わたしは彼らを贖おうとするが彼らはわたしにまやかしを言う。彼らはわたしに向かって心から叫ばず、ただ、床の上で泣きわめく」(13〜14節)。
人は自分の罪に対して、外見上の涙や悲しみをあらわすことができる。あるいはその悲しみは本人にとっては真実の嘆きなのかもしれないが、単に涙を流し悲しむだけでは、心から神に立ち返り悔い改めることにはならないのである。
神はすべての罪をご存じであり、人はそれを隠すことができないのであるから(2節)、罪を隠そうとしないで、率直に主に告白し、赦しを祈り願う姿勢こそ重要である。しかし同時に、口先だけの改心ではなく、実際に罪から手を洗うことが必要である。
「『私の神よ。私たちイスラエルは、あなたを知っている』と叫ぶが、イスラエルは善を拒んだ」(2節)。単に知識としてキリスト教の神を知っているだけでは、救いにとっては何の意味もない。また単に信じるということを心のなかで思っているだけでも十分でない(ヤコブ2章26節など)。キリスト者は、生活のなかで、具体的に主イエスに従いつつ歩む者である。