聖書において、神がその民を見捨てられるということは、ご自分が必ず祝福すると契約してくださった民としてではなく、主を知らない異邦人と同じと見なされるということである。
神から見捨てられる! しかしその理由は、決して無分別な嫉妬ではない。契約の民イスラエルが、まるで契約者たる神などいないかのように振る舞う姿を、主は、自分を愛する夫を捨てて姦淫に走るホセアの妻と淫行によって生まれた子どもたちになぞらえて語られている。
新約聖書でもエペソ書5章21節以下において、主イエスと教会との関係が、愛によって結ばれた夫婦になぞらえて語られている。そして、その愛は常に神の側からの限りないものとして注がれる。神の愛が、血筋によるイスラエルではなく、神を知らなかった異邦人すべてと異邦人同様になったイスラエルのなかから、キリストを信じる民を興し、新たなイスラエルとする。神の民の回復の預言(10〜11節)は、そうして実現したのである。
ホセアが預言した時代は北イスラエル王国末期であったが、一方、当時のヤロブアム2世統治下は非常に繁栄した時代でもある。しかし、北イスラエルの多くの人々は繁栄を、かつてエジプトの奴隷の縄目から解放してくださり、荒野で契約を結び、カナンの土地をお与えくださった主の恵みとは考えず、カナン土着の豊穣神バアルの恵みであると考えたのだった。主への感謝を忘れ、このバアル信仰へ神の民が走ったことこそが、浮気である、と語られるのである。
しかし、神はそれでもなお、妻であるイスラエルと離縁を望んではおられない。神はイスラエルに苦しみを与えるが、それは単なる裏切りに対する罰などではなく、むしろ苦難のなかで真に頼る方を再び見出させようとされるからである。
そしてその立ち戻る場所として、神の愛と憐れみがあらわされている場所こそが十字架である。「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です」(第一ペテロ2章10節)
このような神の限りない「赦す」愛は、再びホセアとその妻との関係になぞらえて語られる。妻は、おそらく奴隷を贖う金額で買い取られた。これは、ヨハネの手紙第一4章11節と響き合っている。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」。十字架の贖いという神の愛を受けた者もまた、人を赦し愛していくよう押し出されるのである。
しかし、そもそも神に背いてバアル信仰など異教の信仰に走ったのは、真の主がどのような方であるかという「知識がなかった」からだと言う。つまり信仰教育が十分になされていなかったので、このような事態になってしまったのだと言う。それゆえ、民に神の教えを伝え、導くべき預言者と祭司は、その職務を果たさなかったことを厳しく咎められている。「私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです」(ヤコブ3章1節)。御言葉の教師たる者の責任は重大である。