しかし、イスラエル人が迷ってわたしから離れたときもわたしの聖所の任務を果たした、ツァドクの子孫のレビ人の祭司たちは、わたしに近づいてわたしに仕え、わたしに脂肪と血とをささげてわたしに仕えることができる。
- エゼキエル書44章15節 -
イスラエルは、神と親しい交わりをする民として神に選ばれました。そして、その中心は神殿での礼拝でした。礼拝のなかで、罪ある者が神の前に受け入れられるには、罪の身代りのいけにえをささげなければなりませんでした。祭司は、神の前に受け入れられるように、民のためにいけにえをささげ、民を教える務めを、神から委ねられました。祭司は、聖なるものと俗なるものの違いを教え、汚れたものと、きよいものの区別を教えなければならないとされました(44章23節)。すなわち、神に受け入れられるものと、受け入れられないものを教えるよう求められたのです。また、神殿礼拝の中心である、いけにえをささげる務めを担いました。いけにえをささげる祭司は、格別きよさが求められていました。
しかし、イスラエルの歴史では、その祭司でさえ偶像礼拝に走ったのです。それゆえに神は、偶像礼拝に関わった祭司たちがいけにえをささげる奉仕に携わることを禁じたのです(44章12〜13節)。
けれど主は、主に仕えることができるツァドクの子孫を残しておられたのです。それ以外の祭司は、どんなにたくさんのいけにえをささげようとも、また悔いようとも、主にいけにえをささげることが許されませんでした。主の前に赦される罪と赦されない罪があることを、思い起こさせます。
ここで考えるべきは、万人祭司の教えです。大祭司アロンの子どもたちは全員祭司でした。同様に、キリストの霊の子どもである私たちも、祭司なのです。そう考えると、牧師たちだけでなく、私たちも、神の前にきよい生き方を求められていることに気づきます。
しかし、私たちはそれにふさわしい歩みができているでしょうか。神の前に完全にふさわしい歩みは、私たち人間の力ではできません。
では、そのまま罪のなかに沈み、神のさばきに服すしかないのでしょうか。いいえ、一つだけ方法があります。それは、キリストの血潮です。この十字架の血潮は、私たちのすべての罪を洗い流し、きよめてくださいます。
キリストのもとに行き、私たちの罪を赦していただきましょう。決して赦されないと思われる罪も、何度も犯してしまっている罪も、キリストが十字架により贖いの代価を払われました。赦されるのです。さあ、今すぐキリストのもとに行こうではありませんか。そして主に近づいて、御霊によって、人の頑なさを取り除いていただき、子としての歩みをさせていただきましょう。