人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべての事を心に留めよ。わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ。
- エゼキエル書40章4節 -
神はさばきの最中でも、イスラエルに回復を語られます。このことは、私たちにとっても、大きな慰めであり、希望です。もちろん神は、罪を犯してしまった人間に対して、さばきを下されますが、それは、人間が罪を悔い、神との関係を回復するためなのです。
主は、ご自身が選ばれた民を、ご自身の契約ゆえに元どおりにされます。「彼らは、わたしが主であることを知ろう」(39章6節)、「これは、わたしの聖なる名のための熱心による」(39章25節)と語られるように、民のどんな功績にもよらず、一方的な恵みのゆえにです。
今日、私たちにも同じ主の恵みが注がれていることに感謝したいと思います。
エゼキエルは、70年のバビロン捕囚の途中の14年目に、神によって新しい神殿の幻をいただきました。それも脳裏に残るほどしっかりと、綿密に、具体的に。これはエゼキエルにとって、どれほどの慰めだったことでしょう。
主は、エゼキエルに、見聞きした神殿の幻を心に留め、イスラエルに告げさせました。目前のバビロン捕囚の現実に希望をなくした人間にとっても、神の幻はどれほどの慰めとなったでしょう。
私たち信仰者は、信仰生活を歩むなかで、多くの問題に打ちのめされるときがあります。あるときは希望さえないと思えるときもあるでしょう。そのとき、私たちはどうすればよいのでしょうか。その問題を主のもとにもって行くよう求められています。天の御座におられる方は、試練の先に、脱出の道を用意しておられます(第一コリント10章13節)。
神の時は、残念ながら私たちが理解できるものではありません。しかし、主が最善をなされる方であることを信頼して、私たちは今日を歩んでいきたいと思います。私たちの主は、信頼する者を裏切られる方ではなく、むしろ力づけ、試練を乗り越えさせてくださる方です。
下を向いていては希望が見えないでしょう。さあ、主を仰ぎ見て進みましょう。