第48水曜 エゼキエル書37章〜38章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか」
 私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです」
 - エゼキエル書37章3節 -

 私たちは、今日の箇所を読んでみて、何を思うでしょうか。この谷間に落ちている骨とは、何を意味するのでしょうか。
 それは、バビロンに連れて行かれ、試練のなかにある南ユダ王国のことです。アッシリヤ捕囚のときにイスラエルが帰還できなかったように、おそらく、南ユダの民も、「自分たちはもう祖国に帰還できない」と思い始めていたのではないでしょうか。捕囚に連れて来られて10年以上も異国に住み、だんだんとその生活が当たり前になっていくとき、かすかに抱いていた希望もなくなり、まさに、この骨のようにカラカラに乾いてしまっていたのでしょう。

 神は、「これらの骨は生き返ることができようか」と、エゼキエルに聞かれます。エゼキエルは、できるともできないとも言わずに、「あなたがご存じです」と答えました。本来なら答えは「否」でしょう。「多くの骨があり、ひどく干からびていた」(37章1節)とあるように、ぼろぼろになっているたくさんの骨は、干からびて、復活できるはずもないように見えました。しかし、エゼキエルは、「主にはできる」と信じていたのかもしれません。
 続けて神は、そのような骨に預言するように言われるのです。エゼキエルが預言していると、骨と骨がくっつき、筋がつき、肉が生じ、皮膚が覆うのです。そして主の息が入り、生き返るのです。

 これはイスラエルに対する復活の預言です。しかし、これは私たちにも当てはまることです。私たちが主の前にどのような状態であろうと、主の御霊が吹けば、リバイバルが起こるのです。
 今、もし私たちの心がカラカラだと気付いているなら、主に「満たしてください」と祈りましょう。南ユダの民が、まったく希望のないと思っていたときにも、主の預言どおりに帰還できたように、主には不可能はありません。どんな信仰の状態でも、どんな教会の状態でも、すべてを変えることのできる主を信じ、歩みたいと思います。


【信仰告白】

[2] 使徒信条