あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
- エゼキエル書36章26節 -
私たちの救いは「神の恵み」による、ということを改めて感じさせられるのが、今日の箇所です。
イスラエルとユダは神の前に罪を犯し、その結果、捕囚の民となりました。しかし、神はその民に回復を語られるのです。ただ、その回復の際に問題がありました。今日の箇所に出てくるセイル、つまりエドム人のことです。エドムは、ユダに主のさばきが下されたとき、逃れた多くの人々を殺し、さらには弱っている神の民、「二つの民、二つの国」(ユダとイスラエル)を占領しようと虎視眈々と狙っていました(35章10節)。いや、それ以上に、彼らの敵意が問題でした。主はご自身の民の回復に際して、悪意を抱き、支障を来たすエドムに対し、さばきの預言をされたのです。
ところで、捕囚の民イスラエルは、なぜ回復の預言が与えられたのでしょうか? 彼らが、捕囚の地で悔いたからでしょうか? 彼らが契約を思い出し、主に叫んだからでしょうか? いいえ。それどころか、36章22節には、彼らが諸国の間で主の御名を汚したと書いてあります。
そんなどうしようもない神の民に、主は、大いなる愛を注がれるのです。つまり、どうしようもない民に、神ご自身が彼らを汚れからきよめ(36章25節)新しい心を与え、新しい霊を授ける(同26節)、というのです。そのうえで、すべての回復、いやすべての祝福が与えられる、というのです。
私たちは、自分たちの救いがどこまでいっても「神の恵み」であることを覚えたいと思うのです。毎週礼拝を守ることができるのも、デボーションができるのも、いやイエス・キリストを自分の主と受け入れることができたのも、です。そして、「神の恵み」とともに、主によって、頑なな心を取り去っていただき、新しい霊を与えてくださるように祈りつつ、今日の一日を歩んでいきたいと思います。