わたしがエジプトの国を荒れ果てさせ、この国にある物がみなはぎ取られ、わたしがそこの住民をみな打ち破るとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。
- エゼキエル書32章15節 -
古代社会においてエジプトは大国であり、文化や軍事、その他多くの面で先進国でした。そのため、イスラエルもユダも、属国になることを覚悟で、あるときには助けを求めたことすらありました。
そんな歴史的背景を考えつつ、現在の私たちにとって「エジプト」が何を意味するのかを考えることは、大きな益になります。
「エジプトは自分とは関係ない」と、今日の箇所を軽く読み過ごすのは、重要なことに目を閉じてしまうことです。なぜなら、ここで言われているエジプト人とは、「誇りと高慢」の象徴ともとれるからです。主はそのような心を取り除かれます。それは多くの場合、簡単な処置ではなく、膿みを取り除く外科的摘出手術と言えます。それは痛く苦しい手術です。しかし、この手術はあくまで私たちを癒すためであることを、忘れないようにしましょう。
まずは、エジプトの、栄えを誇った様を確認してみましょう。エジプトを木にたとえ、アッシリヤ帝国のレバノン杉(31章3節)と比べます。エデンの木々(31章9節)もこれを羨んだとあります。美しさ、丈の高さ、枝の生え方、安定感、すべてにおいて、木としての最高の栄誉を得ていました。
これほどに栄えたエジプトが、主によってさばかれるのです。なぜでしょうか? それは「心がおごり高ぶったから」(31章10節)です。実際、人間は栄えれば栄えるほど、神を神とできなくなり、高ぶる傾向があるのです。エジプトのように栄えると、心が高ぶり、主を主と認めなくなりがちなのです。
その高ぶりによって、エジプトはどうなったのでしょうか? 主によってバビロンの王の剣が下りました。エジプトの誇りは踏みにじられ、群集はみな滅ぼされる(32章12節)とあります。さらに主のことばはこう続きます。「わたしがエジプトの国を荒れ果てさせ、この国にある物がみなはぎ取られ、わたしがそこの住民をみな打ち破るとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう」(32章15節)
私たちは今、自分が心高ぶっていないかどうか探らなくてはいけません。主の前に高ぶっていないか? いや、主以上に大切にしているものはないか? 名声、金、異性などはどうだろうか。自分の心の王座に主が座しておられる人生を歩んでいるだろうか? 主がさばきをされる前に、私たちは自分の心を吟味することが求められているのです。私たちは、自ら主の前に進み出て、罪を悔い改めつつ、主を知り、主を喜ぶ人生を歩んで行きたいと思います。