本文の解説に入る前に、歴史の全体像を振り返ることが、理解する上で有益だと思う。ソロモンの死後、王国は南北に分裂する。北王国イスラエルには19人の王が立つが、ことごとく「主の目の前に悪を行い」、その結果アッシリヤに攻め落とされ紀元前722年に滅んだ。一方、南王国ユダには20人の王が立ち、ときには宗教改革などによって信仰復興することもあったが、偶像礼拝などの「悪」を重ねた結果「バビロン捕囚」とされ、紀元前587年には首都エルサレムと共に神殿も破壊された。ここに至るまで神は「神に立ち返る」ようにと、数多くの預言者を送った。その一人が預言者エゼキエルである。
エゼキエルはバビロン捕囚として移住させられてから5年の後に、預言者として召命を受け、本預言書に記されているとおりの神の言葉を語り始める。その預言の言葉の大枠は、「神のさばき vs 回復の希望」と言える。すなわち、このまま神に背き続けるなら神のさばきという厳しい現実が待ち受けている、しかし「悔い改めて悪から立ち返る」とき、神は回復を備えてくださっている、というメッセージである。
2羽の大鷲が預言の言葉に登場してくるが、これはそれぞれバビロン王とエジプト王を指す。バビロン捕囚が始まり、エルサレム陥落までの間、南王国ユダがこの2国とどんな関係にあったか、またその問題とは何かが、大鷲のたとえによって語られている。ユダ(若枝の先、ぶどうの木)はバビロン捕囚とされるが、王に依存しつつも「成長し」、「よくはびこ」った。また、エジプト王にも頼る姿がある。このような他国への依存は神に反する行為(イザヤ30章1〜2節、エレミヤ37章7節)であり、神との契約の無節操を意味する。それゆえ、罰は免れることはなくさばかれる。しかし22〜24節からは、さばきの後に恵みによる回復を神が備えていること、究極の回復はメシヤによって成されることが語られている。
当時広く行き渡っていた諺が代弁しているように、「自分たちが直面している今の苦難は父祖の過ちのゆえ」、というメンタリティをイスラエルの民も握っていた。その弊害は深刻で、人々は運命論的悲観主義に陥り、個人の悔い改めが軽んじられ、さらには不公平を訴える神への不満へと導いた。
そのようななかで、父祖の罪の影響をその子が受けることがあったとしても、さばかれるものではない。罪を犯したその当人がさばかれるという原則を繰り返し主張するものである。
文体に目を向けると興味深い。死ぬ/生きる/死ぬ/生きる・・・が交互に章全体に渡って縞模様のように繰り返されている。そして章の締めくくりは、「だから、悔い改めて、生きよ」と声高らかに語るのである。