いかに主がエルサレム、つまりユダ・イスラエルを愛しておられたかが伝わってきます。それを知れば知るほど、エルサレムへのさばきの妥当さ、主の正当さが際立ちます。
そもそもエルサレムはカナン人の町でしたし、ウルの地からやって来たアブラハムのルーツは、今のイスラエル人から見れば異邦人でした。自分はイスラエル人であり、異邦人ではない、という高ぶりは何の意味もないのです。
主は、ただ一方的なあわれみによって、捨て子同然だったみじめな彼らを見つけ、「生きよ」とことばをかけられたのでした。水で洗い、油を塗り、着飾らせ、様々な宝飾品と冠を与え、女王の身分までくださったのです。一方的な愛です。受ける側には何の功しも能力も要求されていません。
ところが、「自分の美しさに拠り頼み、自分の名声を利用して姦淫を」(15節)行うようになってしまったのでした。主から与えられた賜物を、あたかも自分の力で得たかのように誇り、自慢し、濫用してしまうなら、それは罪です。その後は堕落の下り坂を転げ落ちるように、偶像礼拝という姦淫を重ねて行ったのでした。また、その罪を忠実に次世代に受け継がせ(20節)、主の子を殺し、焼き、偶像へのささげものとする(21節)という言語道断のふるまいまでしてしまいました。
主も飢饉を送ったり、悔い改めの機会を与え、忍耐をもって待たれます。しかし、ユダは戻っては来ませんでした。むしろ一般の遊女が受け取る報酬を受け取らず、むしろ代価を払って姦淫を続けます。要するに、ただ自分の快楽のために忌まわしいことを繰り返す、という姿です。
ユダを生かす主の愛を踏みにじるようなふるまいに対して、主は、さばきを宣告されるのです。主ご自身が「ねたむ」(38節)と言われることに注目させられます。すべてのものを持っておられ、他の何かに満たしてもらう必要の一切ない方が、ねたみをもたれるというのです。
罪を徹底的にさばかれるのも、義ときよさという神のご性質ゆえでしょうが、愛するユダが罪を犯したままでいることを決して放置できない、という愛ゆえということもできます。ソドムやサマリヤを引き合いに出しつつ、なんとか罪を悔いよ、という主の御心がうかがえます。
ここから赦しと回復のメッセージが語られます。罪の報いは受けねばなりません。契約の一方的な破棄は安易に見過ごされはしません。しかし、そのさばきは、ユダを完全に滅ぼし尽くしてしまうためではありません。エルサレム陥落の後、なおも一方的に主が再契約を結んでくださるという回復へと続きます。
そのとき、主の途方もないあわれみに圧倒されたユダは、かつての罪を恥じ、主に逆らう者とはならない、と言われます。
私たちも、どれほどの罪を、御子の十字架という莫大な恵みによって赦されているでしょうか。この主の愛にふれられるときに、心から罪を恥じ、悔いる思いが与えられるのではないでしょうか。私たちを愛してくださる主をこれ以上悲しませるのはこりごりです。罪を悔い改め、主に従い、主に信頼して歩んでいきましょう。