第46金曜 エゼキエル書13章〜15章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

【13章】

 主のみことばは、確実に、速やかに実現します。しかし、もし主からのことばでないのに、主の告げたことと偽るなら、そのことばには何の力もないばかりか、聞く者をつまずかせ、正しい信仰から遠ざける害悪となります。
 この時代も偽りの預言者がいたのです。自分の心のままに語り、イスラエルを修復しようとしません(5節)。また、主のさばきを憶えて悔い改めをしなければならないときに、偽りの「平安」を語り、壁をあっという間にしっくいで塗ってしまい、見た目はそれなりに整えてしまうのです。また、民を占いによって惑わす女預言者たちもいました。しかも彼女らは、自分たちを満たすわずかなパンのために、民全体を迷わせていたのでした。
 主の怒りは彼らに向かい、さばきが厳しく臨みます(第二ペテロ2章1〜3節)。「まやかしに聞き従」ってしまう愚かな民にもかかわらず、「わたしの民」と呼び、救い出そうとする主のあわれみを憶え、真実のみことばに聞き従いましょう。

【14章】

 偶像礼拝は、何も異教の神殿で物体としての像を礼拝することだけではありません。心に秘めたかたちで、主以外のものに心を寄せ、結果的に不義に陥る生き方もしかり。そしてそちらのほうが深刻です。イスラエルの長老はエゼキエルの前に座りますが、心から主のことばを求めてはいなかったと思われます。13章で糾弾された預言者たちの偽りのことばだけが悪いのではありません。聞く者も悔い改め、偶像と忌みきらうべきものを心から除いたうえで(6節)、主のことばを聞かなければならないのです。
 ですから主のさばきは一人一人に応じて行われます。ノア、ダニエル、ヨブと言えば、信仰の義人中の義人と呼べる人物です。そんな彼らでも、主のさばきの前には自分の義で自分を救うことができるにすぎません。他人の義が自分の救いの保証にはならないのです。彼らの家族でさえ、滅びるならそれは本人の罪のためなのです。
 エルサレムから新たにつれてこられる捕囚の民をとおして、慰めがもたらされるとはどういうことでしょうか。いずれにしろ、何らかのかたちで主の正義は確かにあらわされるのです。

【15章】

 聖書中でイスラエル民族は、よくぶどうの木にたとえられます。ぶどうの木は、実を豊かに結んでこそ、すばらしい木ですが、枝そのものは他の木々と比べて何の役にも立たず、価値もありません。焼かれてしまった後ではなおさらです。
 あなたをとおして諸国の民は祝福されるというアブラハム契約(創世22章18節)の実を結ぶことができなければ、イスラエル人そのものが、他と比べて何の特別な価値があるでしょう。「価値がある。神は我らを滅ぼさない」という勘違いが致命的な主のさばきを招くことになったのです。
 私たちもおごることなく、主につながり、実を結ぶことを求めていきましょう(ヨハネ15章5節)。


【信仰告白】

[2] 使徒信条