第46木曜 エゼキエル書10章〜12章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

【10章】

 前章では、滅びから免れさせるために「忌みきらうべきことのために嘆き、悲しむ」人々の額に印をつけた御使いが、10章では、燃える炭火をエルサレムの町にまき散らすために遣わされます。5章4節の預言の成就と言えるでしょう。
 そしてついに、主の栄光は、翼を広げ、車輪をかって飛び立つケルビムとともに神殿の敷居から出て行きます。かつてソロモンが神殿を建てたときに、主は祈りに答え、「わたしはこの宮を聖別した。わたしの目と心はいつもそこにある」と言われました(第一列王9章3節)。その神殿から栄光が去るのです。それこそが究極の神のさばきではないでしょうか。

【11章】

 続けて主がエゼキエルに見せたのは、東の門にいる25人でした。そのなかには、アズルの子ヤアザヌヤと、ベナヤの子ペラテヤがいました。彼らは捕囚の際にエルサレムに残されたために安心しきったのでしょうか。エルサレムは鍋で、自分たちは肉だ、というのです。つまり、貴重な自分たちが投げ捨てられることはない、という楽観論を展開し、悔い改めを妨げていたのです。
 彼らの思いとは裏腹に、実は彼らによって殺されてしまった者たちこそ肉である、とエゼキエルは預言します。そして、剣によるさばきの宣告をしている最中に、ペナヤの子ペラテヤが死にました。エゼキエル自身は、彼らが「残りの者」であり、回復は彼らから始まると思っていたのかもしれません(13節)。
 しかし主は、むしろ捕囚の民とともにあって聖所となっていた、とおっしゃるのです。散らされて困難を経験し、罪に向き合い、悔い改める捕囚の民こそ、主が残りの者としてくださる存在でした。主は喜んで新しい霊を与え、関係を回復してくださいます。
 主の愛は、愛する者をしかる父のような愛です(箴言3章11〜12節)。苦難のなかでも主の愛を憶え、素直な悔い改めへと導かれたいものです。

【12章】

 捕囚の民に向けて、エゼキエルは再び象徴的な行為をするようにと命じられます。それは、頑なな彼らが罪を自覚するかもしれない、という主の期待によるものでした(3節)。預言の内容は、依然として厳しいものです。エゼキエルが荷物を負って捕囚の民のように出ていけとの命令や、恐れながら食事をせよ、という命令は、今エルサレムに残されている者たちも、異邦の地に捕らえ移されることの宣告です。
 どうせそんなことは起こらないだろう、起こるとしてもまだまだ先だろう、という意識があったようです(22節)。しかし、主のことばは必ず、かつ速やかに実現するのです。
 私たちはどうでしょうか。主のことばを侮って、悔い改めを先延ばしにしてはいないでしょうか。


【信仰告白】

[2] 使徒信条