主は、「終わりが来た」(2節)、「わざわいが来る」(5節)、「その日が来る」(10節)、「苦悩がやって来る」(25節)と繰り返し告げておられます。偶然の災害などでは決してありません。主ご自身がさばきとして下す災いであり、イスラエルの民の今までの行いに対する報いです。尋常ではない緊迫感が伝わってきます。
この災い、剣、ききん、疫病(15節)によるさばきに対して、たとえ戦い、抗ったとしても、完全に人間は無力です。また今までより頼んでいた金銀や、偶像も、自分たちを守ることができず、何の役にも立たないことがはっきりします。こうなってしまうまでそのことを悟れない人間の頑さを思わせられます。
それにしても「わたしの聖なる所(隠されたもの)」を悪者どもに汚させると主が言われるとは(21節)! 人間に滅びを宣告される主自ら、痛みをその身に負われるという事実を厳粛に受けとめましょう。
ユダの長老たちがエゼキエルの前に座っています。この期に及んでもなぜ自分たちに災いが及んだかわからずに、エゼキエルに尋ねに来たのかもしれません。あるいはエルサレムに災いが及ぶなど信じられなかったのでしょうか。すると主の御手がエゼキエルの上に臨み、エルサレムの幻を見させられるのです。
しかしそこで見させられた現状はひどい有様でした。北の祭壇の門にはねたみの偶像が置かれ、壁の向こうでは70人の長老が壁一面の偶像に礼拝を捧げています。主の宮の北門では、タンムズという偶像への礼拝、同じく宮の内庭では25人ほどが太陽を拝んでいたというのです。
「神の平和」と名付けられたエルサレムにおいて、忌まわしい偶像礼拝の数々。これは決して「ささいなこと」ではないのです。主のさばきは正当なものであり「惜しまず、あわれまない。彼らの声も聞かない」とのことばは、主が冷酷すぎるためではありません。
幻のうちに、エルサレムへのさばきが遂行されます。主に呼び出された7人の御使いに、容赦なく、年齢、性別関係なく殺すよう命じられ、実行されていきます。
たまらずエゼキエルも、主に叫びました。しかし、このさばきから逃れられる唯一の道は「忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる」(4節)かどうか、でした。まず罪を悲しむことなくしては、いかなる信仰の歩みも表面的になってしまいます。罪に鈍感であってはなりません。これくらいは誰でもやっている、などと軽く考えてはならないのです。主の御目はどこにでもあるのですから。