エゼキエルは主から、いくつかの象徴的行為をなすように命じられました。これは当然、彼が主からのメッセージを伝えなければならない相手、すなわち、イスラエルの民の目の前でおこなわれるべきものです。聞かせるみことばというより、見せるみことばとしてのジェスチャーと言えるかもしれません。
まず、粘土板に彫りつけられたエルサレムを、鉄の平鍋で囲め、といわれます。つまりユダの人々が心のよりどころとしていたエルサレムは敵に包囲され、陥落するのです。
次にエゼキエルは、左脇を下にして390日間横たえさせられます。次に右脇を下に40日間。1日を1年に換算した390年間、40年間のイスラエルの罪に応じて、神のさばきが続くのです。
この間の食料として、主は一日一度の計量されたパンと水のみ許されました。しかもそのパンは公衆の面前で、人糞で焼け、と命じられるのです。エルサレムが飢餓と汚れに覆われる象徴でしょう。主の哀れみとして譲歩があるものの(15節)、主のさばきはエルサレムに徹底して臨み、人々に不安をもたらします。
イスラエルにおいて頭とひげを剃るのは、嘆きを表します。祭司は髪にカミソリを当てることを禁じられています(レビ21章)が、せよ、と命じられます。さらにそれを3分の1ずつ分け、焼き、打ち、散らさせます。同じことを、主はエルサレムに対して行われるとの預言です。
選民イスラエルは、いつの間にか選民であることにあぐらをかき、エルサレムが責め滅ぼされることはあるまいと高を括り、最も大切な主への信頼と従順を忘れてしまっていたのです。その罪に対して主は「あなたを惜しまず、また、あわれまない」(11節)というほどの激しい怒りを注がれるのです。
とはいえ、「惜しまず、あわれまない」ならばなぜ、主はエゼキエルを預言者として召したのでしょうか。「主の熱心」(「ねたみ」とも訳せる)を知ってほしいからではないでしょうか。預言の警告を悟って悔い改める魂を、なおも求めておられるからではないでしょうか。
イスラエルの山々は「高き所」として偶像礼拝の場とされることがありました。その山々に向かって偶像と偶像礼拝者へのさばきが宣言されます。そして当然のことながら、主こそほめたたえられるべき方であることが明らかにされるのです。
「残りの者」(8節)の存在は希望です。私たちも一方的な主の哀れみでさばきを免れた者として、この方こそ主の主である、と告白しましょう。