ユダの民が捕囚として連行されて行った先、ケバル川のほとりで、祭司エゼキエルに主のことばと幻が臨みました。主の臨在は、エルサレム神殿だけにあるのではありません。異邦人の地であっても、また捕囚というさばきの真っ最中であっても、確かに主のことばは語られ、主の御手は置かれるのです(エレミヤ23章23〜24節)。
そこで見せられた幻に出てくる生き物は、ケルビムです(10章15節)。その姿の描写の一つ一つの意味を特定するのは困難ですが、むしろ注目させられるのは、ケルビムのはるか上に見えた主の栄光を目の当たりにしたとき、ひれ伏したエゼキエルの姿です(26〜28節)。困難に圧倒されてふさぎ込んだりうなだれたりするよりも、すべてのものの上におられる主の栄光の前にひれ伏したいものです。
2章でエゼキエルは、主から預言者としての召命を受けます。立ち上がれ、ということばとともに、主の霊が、ひれ伏していたエゼキエルを立ち上がらせました。そして、彼は主からのメッセージを聞くのです。
ところが主がエゼキエルに語れと告げたメッセージは、耳障りのよいことばではありませんでした。むしろ聞く人々が腹を立て、拒絶し、エゼキエル自身に迫害による危害を及ぼしかねないようなメッセージだったのです。その内容は哀歌、嘆き、悲しみでした(10節)。手軽な癒しを与えてくれる慰めなら聞きたい、と思う人もいるでしょう。しかし、エゼキエルが語るべきことばは、「神である主が仰せられる」ことです。それゆえ聞く相手が、たとえ聞かずとも、彼らの顔を恐れず、まっすぐはっきり語らなければなりません。
私たちは人の顔を恐れ、語るべきことばを閉ざしていないでしょうか。
エゼキエルは主のことばである巻物を食べさせられます。主のみことばは、たとえ哀歌、嘆き、悲しみであっても、信仰をもって受け取るなら「蜜のように甘い」ものです(第二コリント7章10節)。まずは預言者がその喜びに満たされる必要がありました。そして語るときに力を与えてくださるのも主です(8〜9節)。
語るべきことばを与え、喜びを与え、語る力を与えるとの、主の配慮と約束があります。それはなんとしても主のことばを届けたいという主の思いがあるからではないでしょうか。であればこそ、語らないなら、預言者はその責任を問われることになります。
現代でも、語る者聞く者ともに、みことばをどう語るか、どう聞くかが問われています。