第46日曜 哀歌4章〜5章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

【4章】

 本来はかけがえのない、すばらしい価値を持っているはずのものが、無価値と見なされ、投げ捨てられています。神の選びと祝福に与っていたはずのユダの民は純金、聖なる石と称されていました。しかし、飢えの窮乏のなかで、女が「自分の手で自分の子を煮て」食物とするという地獄絵図が繰り広げられる有様です。異邦人からも「汚れた者」と追い払われ、主からも怒りの炎がくだされ、散らされているのです。
 なぜ、こんなことが起きたのでしょうか。13節によれば、預言者、祭司たちが、正しい人の血を流したためとあります。この罪に対する主の激しい怒りに、ユダの民はさらされているのです。その主のさばきは、たとえエルサレムが難攻不落に見えたとしても(12節)とどめられるものではありません。他の国に救いを求めようと(17節)、自分たちの王に期待しようと(20節)、失望に終わります。
 主のさばきにはえこひいきがありません。たとえ選民ユダであっても、そしてユダに対する主のさばきに用いられるエドムであっても、その咎に対しては公平にさばかれるのです。
 厳粛かつ敬虔に、この方に悔い改めと信頼をささげて歩みたく思わされます。

【5章】

 主のさばきはまだ終わってはいません。主から与えられた相続地、身分を失い、恵みの賜物であるはずの水さえ、代価を払わなければ手に入れられない状況が描かれています。安息日を定めてくださった主の恵みとしての休息も得られず、常に剣につきまとわれる圧迫があり、老若男女すべてが霊肉ともに憔悴しきっています。
 このような状況を招いた原因は、先祖の罪(7節)であり、自分たちの罪(16節)であるとの告白が綴られています。苦難や窮状を、神や誰かのせいにするのではなく、自らの問題であると告白しているのです。その上で、主の絶対的主権を憶えつつ「あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです」(21節)と懇願しています。個々の問題の解消ではなく、主への悔い改めのみが本当の解決となる、と確信しているからでしょう。
 「あなたはそのままでいい」というメッセージがはやる時代です。確かに私たちの経験するすべての苦難が、罪のさばきであるとは限りません。しかし、それが言い訳になって、自分の、あるいは自分たちの罪に向き合わず、主に告白し悔い改める機会を持たないなら、本当の癒しは与えられないのではないでしょうか。


【信仰告白】

[2] 使徒信条