主人公ユダを、1〜10節は三人称で、11〜12節は一人称で、13〜19節は二人称で表しています。20〜22節は、神との交わり、すなわち祈りです。
ユダへの懲らしめはさばきに拡がり、礼拝の場所を荒れすたらせ、祭りと安息日を人々から忘れさせ、仕える王や祭司を退けられました(6節)。さらに、律法(を教える者)はなくなり、預言者にも主からの幻がなくなりました(9節)。宗教的リーダーがいなくなったのです。懲らしめは、礼拝や集会が荒れるというかたちであらわれることもあるのです。
主のさばきは、罪を犯した大人たちに留まらず、幼子や乳飲み子まで拡がっています。彼らは広場で衰え果て、母の懐で息も絶えようとしています(11・12節)。
子どもたちの姿を見るにつけ、人々は主に向かって心の底から叫びました(18節)。主人公は促されます。「あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ」(19節)。
3章はすべて一人称で主の御前における証、告白が綴られます。
1節から18節まで、主の懲らしめが証しされています。外見上の苦しみだけでなく、内面上の懲らしめもあります。助けを求めて叫んでも、主は聞いてくれません(8節)。答えのないのも主の懲らしめです。主人公のたましいは平安がなくなり、幸せを忘れてしまいました(17節)。
19節から39節までは、主の懲らしめが、不思議なことに恵みへと変えられることが証しされています。懲らしめを思い返すなかで、主を待ち望む信仰が与えられています(21節)。不思議なことです。そしてここから、「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」(22節)というすばらしい告白がなされています。主の懲らしめはまたくびきである。それを負わされたら、じたばたするのではなく黙って座っているのがよいでしょう(27・28節)。主の救いを黙って待つのがよい、と述べられます(26節)。
40節から66節は、主に立ち返る祈りです。主の懲らしめを受け、祈りがさえぎられても(44節)、なお祈るとき、主は近づいてくださり、恐れを取ってくださいます(57節)。主はたましいの救い主です。訴えを弁護してくださり、私のいのちを贖ってくださいます(58節)。このお方はイエス・キリストです(第一ヨハネ2章1節)。