エレミヤ書の編集者は、ユダの王ゼデキヤとエホヤキンの治世について(それはバビロン捕囚期でありますが)、それを記すことで書を閉じています(列王記第二の終り方と同じです)。それはバビロン捕囚によってユダが滅びた記録です。エレミヤ書はユダに対する主の怒りが書かれてあり、主はユダを投げ捨てられました。
1〜11節では、主人公ユダを三人称で表すことによって、その悲しみを客観的に描いています。12〜19節では一人称で表しています。そして20〜22節は主人公ユダの祈りです。ある人(あるいは擬人化されたもの)を、他者の目で、自分からの視点で、神との交わりのなかで見つめ、描いています。
多くの背きの罪を懲らしめようと、主は諸国を用いてユダを大いに悩ましました(5節)。ユダは正気に戻り、本来自分を慰めて元気づけてくれるはずの主が遠く離れているのに気づき、目から涙をあふれ出させています(16節)。主は正しい。私は主の命令に逆らった。ここにユダの悔い改めの姿が見られます(18節)。
主人公は神に逆らい続けたにもかかわらず、祈りのなかで神に慰めを求めています。「主よ。ご覧ください」(20節)と、ありのままをさらけ出しています。人は失敗からも学ぶことができます。改めて、主につながる信仰を覚えましょう。