50〜51章はバビロンに対する預言です。主によって立てられたバビロンでしたが、そのバビロンも捕らえられ、その偶像神ベル、メロダク(マルドゥク)は辱められ、砕かれます。バビロンと同じように北から一つの国がバビロンに攻め上り、この地を荒れ果てさせたからです(2・3節)。
イスラエルの民もユダの民も涙ながらに、主を尋ね求めます。シオンに向かって行き、どうしても忘れられることのないとこしえの契約によって主に連なる告白をします。
主はイスラエル・ユダを迷える羊と言います。牧者(祭司、預言者、指導者)が民を迷わし、山々に連れて行き、休み場も忘れてしまったからです。時至って主は、バビロンから逃げ、カルデヤ人の国から出よ、と赦しを語られました。
主はバビロンを、イスラエル、ユダへの懲らしめのために送りましたが、懲らしめ以上にバビロンは主に罪を犯しました(14節)。そこに、バビロンに対する主の復讐があります。
主の与える回復、赦しは完全であります。いったん回復され赦されると、イスラエルの咎は見つけようとしてもそれはなく、ユダの罪も見つけることはできません(20節)。主が、残す者の罪を完全に赦すからです。
これは、私たちにも言える、信仰による義です。イエス・キリストを受け入れた私たちは、主の残す民であり、主ご自身が私たちの罪を赦してくださるので、その罪はもはや見つけることができないのです。感謝!
諸国を打ったバビロンに、今度は主の滅び、刑罰の日が来ます。主はバビロンにわなをかけ、捕らえました。それはバビロンが主に争いをしかけたからでした(24節)。主に用いられているからといって高ぶってはいけません。謙遜に用いられましょう。バビロンはそれができませんでした。
主のさばきは、主に対して高ぶる者になされます。主は攻め、その人を罰します。その人が行なってきたように、その人にされるのです(29節)。
虐げられているイスラエル、ユダを贖う方、主は強いのです。主は彼らの訴えを支持し、バビロンの住民を震え上がらせます(34節)。主の剣が、バビロンの国のすべてのカルデヤ人に下ります。偶像に狂っている国をさばかれるのです(38節)。