46章から、バビロンのネブカデレザルが滅ぼす諸国に対する預言です。
最初はエジプトの敗北。武装した兵士がおののきます。恐れがあったからです(5節)。彼らがどんなに勢いづいても(8節)、彼らはつまずき倒れます(6節)。その日が、万軍の神、主の日、エジプトに復讐する日でありました。エジプトは癒されず、勇士は勇士につまずき、ともに倒れます(11・12節)。主の剣がエジプトの周りを取り囲み、主が彼らを追い払われます。
「わたしは生きている」(18節)とは、必ずそうなるということです。主は必ずや、その地の偶像神アモン(アンモン)とそれに仕える者、より頼む者を罰します(25節)。しかし主はエジプトに憐れみをかけます。「その後、エジプトは、昔の日のように人が住むようになる」(26節)。
エジプトに頼ったイスラエルに対しては、公義によって懲らしめ、必ず罰するけれども、そこにも主がともにおられ、滅ぼし尽くすことはないと言われます(28節)。
主は、このように私たちをも取り扱ってくださいます。ただ、だからといって主に背くべきでないのは当然です。
ペリシテ人に対して破滅の預言がなされます。ガザからツロ、シドンに至る地中海沿岸に住み、イスラエルを圧迫してきたペリシテ人に対して、主が剣に命じられました。
モアブに対する預言です。モアブの町々が滅ぼされていきます。主の戦いの特徴はその地の偶像との戦いです。偶像神ケモシュは、それに仕えていた祭司や首長たちとともにバビロンの捕囚となります(7節)。同時に、主への信仰が求められています。「主のみわざをおろそかにする者は、のろわれよ」(10節)。
モアブは安定した国で、捕囚になったことがありませんでした(11節)。しかし、偶像に頼る者は、それによって恥を見ます。モアブは勇士でした(14節)。しかし、その力の象徴である角は切り落とされ、その腕は砕かれたのです(25節)。
高ぶり、高慢は、神のことばを聞かず、その自慢話はでたらめで、その行いも正しくなく(30節)、しかもそれに気づかないのです。主は彼らを酔わせ、物笑いとされます。
主は宗教的に聖めます。高き所でいけにえをささげ、神々に香をたくモアブの者を取り除きます(35節)。また主は一度、誰も喜ばない好まない器のように、モアブを砕きます(38節)。彼らを物笑いの種とし、初めての捕囚という砕きを与えることによって、彼らの高慢を取り除きます。
しかし、モアブには主のあわれみがあります。「終わりの日に、わたしはモアブの繁栄を元どおりにする」(47節)。回復すると主は言われるのです。偶像を捨てたモアブの救いです。あるいは、ダビデの先祖モアブの人ルツに対するあわれみかもしれません。