すべての将校たちがエレミヤに主に祈るようにお願いしています(42章1〜6節)。表面上とても敬虔です。しかし「ユダの国にとどまれ」という自分たちの意に反した主のことばがエレミヤから発せられると、それに逆らい、エジプトの国に行ったのでした(7節)。
このような信仰は空しい限りです。自分の意に沿うみことばしか受けつけない者は、自分が神より偉い、高ぶった者たちです。生ける神の御前に立つ畏れのない信仰は、霊的に堕落しているのです。
「エルサレムとユダのすべての町が廃墟となる。それは、あなたがたも先祖も知らなかったほかの神々のところに行き、香をたいて仕えたためだ」(2〜3節)という預言を聞いても、民は心を砕かず、主を恐れず、律法と定めに歩みませんでした(10節)。主は御顔をユダヤ人から背けて、災いを下し、ユダのすべての民を断ち滅ぼそうと預言されます(11節)。
同時に、「ただのがれる者だけが帰れよう」(14節)とも宣言されました。全滅を免れるのは、ただ主のあわれみによります。
しかしながら、民は「あなたが主の御名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない」と、はっきりエレミヤの預言を断りました(16節)。なんということでしょう。このような者たちの集まりは、信仰の土台をゆすぶるものです。
そのとき主はどうされるでしょうか。主は、信仰を継承するため、少数者を残します。それは「主のことばは必ず成就する」ということをその者が知るためであり、知った者たちが証をするためであります(28・29節)。みことばの体験は証の原動力です。
エレミヤの従者バルクが人間的な悲しみでその信仰を弱らせるとき(3節)、主は彼を慰めるのではなく、かえってその信仰を引き上げました。「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下すからだ。しかし、わたしは、あなたの行くどんな所ででも、あなたのいのちを分捕り物としてあなたに与える」(5節)。
地上の私たちの人生には、わざわいが多いかもしれません。しかし、霊的には、主の祝福が備えられているのです。それがみことばの約束です。主のことばがどんなに厳しくても、結局のところ、主が私たちのいのちを支えてくださるのだから、それは恵みです。
「主のことばは必ず成就する」という信仰を強められましょう。