第44木曜 エレミヤ書36章〜37章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】
「神の言葉に立ち返ろう」

 36章は35章と同様に年代の違う記事が挿入され、37章以降は再び34章以降の出来事に続いています。エホヤキム王の治世に、エレミヤは主から語られた言葉を巻物に記しました。エレミヤの主から受けた言葉を筆記したバルクは、幽閉されているエレミヤに代わって人々の前で、神の言葉を語ります。その言葉の重要性を理解した首長たちは、王の前でその言葉を読み上げますが、エホヤキム王はその巻物を小刀で裂き、暖炉の火で燃やしてしまいます。エホヤキム王の治世が終わり、セデキヤが王になりますが、民はエレミヤに語られた主の言葉に聞き従いませんでした。

【36章1〜8節】

 エレミヤは幽閉されているなかで、神の言葉を受けました。そして、それを書き記し、民に読み聞かせるという使命が与えられました。バルクという必要な助け手を神から与えられ、エレミヤは神の言葉を人々に語りました。
 私たちにも、時が良くても悪くても神の言葉を伝える使命が与えられています。忙しいから、難しいからという理由で神の言葉を語ることを躊躇してはいないでしょうか。神様は人々に語るために、必要な助け手と道を備えてくださる方です。あきらめずに、常に神の言葉を語る備えをしましょう。

【36章20〜31節】

 イスラエルの民が祝福されるのは、民が御言葉に立ち返り、御言葉に聴き従うときです。神は預言者を遣わして、その時代の人々に御心をあらわし、民を導かれました。神の言葉を神の言葉として受け入れ、立ち返るとき、民は生かされますが、神の言葉に聴く耳をもたないときには、民は滅ぼされます。とりわけ、民のリーダーである、王や首長の御言葉に対する姿勢が国全体に影響をおよぼしていくゆえに、その責任は重いものです。
 家長である夫が神の言葉を重んじるとき、それは家庭全体の祝福へとつながっていきます。家庭の祝福を覚えつつ、まず家庭における神の言葉に対する位置づけをもう一度見直してみませんか。家庭で神の言葉が権威あるものとして語られ重んじられることが大切です。

【37章1〜10節】

 セデキヤ王はエレミヤを預言者と認めつつも、彼の言葉には聞き従いませんでした。神の言葉よりも、援軍のエジプトに淡い希望を抱いていたのです。しかし、神はエレミヤを通してセデキヤ王に「見よ。あなたがたを助けに出て来たパロの軍勢は、自分たちの国エジプトへ帰り、カルデヤ人が引き返して来て、この町を攻め取り、これを火で焼く」と警告をしています。
 私たちは神の言葉以外のものを優先的に拠り頼んでいることはないでしょうか。目に見えるものは刻々と移り変わっていくものばかりです。私たちは移り変わっていく希望に自分の歩みを委ねていくものではなく、いつまでも変わることのない神の言葉の確かさにしっかりと委ねていくものでありたいと思います。


【信仰告白】

[2] 使徒信条