ついに、エルサレムを包囲したバビロンの攻撃が始まります。主はエレミヤを通して、セデキヤ王にエルサレムが陥落するという神の計画を告げ知らせました。そのようななかで、セデキヤ王はエルサレムにいるすべての民と契約を結び、悔い改めのしるしとして律法に準じて同胞へブル人の奴隷たちを解放することを主の前に誓います。しかし、エルサレムの民はその神との誓いを翻し、再び解放した奴隷を使役したため、裁きが宣言されます。35章は、時系列的には26章以降に続くエホヤキム王治世の事柄ですが、34章の、契約に不誠実であったエルサレムの住民と対比するように、先祖の言い伝えを忠実に守るレカブ人を称賛します。
主の御前で約束をし、信仰の決断をしたにもかかわらず、その決意をないがしろにしているということはないでしょうか。旧約の時代、お互いに契約を交わすときには、引き裂いた動物の間を通り抜ける儀式をしていました。契約を破ればその動物のようにいのちを絶たれることを意味していたのです。
箴言12章22節では「偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。真実を行なう者は主に喜ばれる」と記されています。神を畏れる歩みは、誠実に約束を守ることからはじまります。たとえ、その約束が自分にとって損になったとしても、誓いを変えずに誠実さを保つことは大切なことです。
神はレカブ人の忠誠心を祝福され、「レカブの子、ヨナダブには、いつも、わたしの前に立つ人が絶えることはない」と言われました。それは、彼らが私欲に惑わされずに忠実に先祖の命令を重んじたからです。同じように、神を愛する人は、神の戒めを大切にして生きる人です。神を愛することと、神が言われることを行うことは表裏一体だからです。
私たちは神の言葉に生きることを私たちの喜びとしているでしょうか。日々のディボーションや祈りを通して、神の御心を行うことを私たちの霊的な糧としているでしょうか。心においてそうであるならば、口先だけでなく、行動においてもその姿勢を保っていきたいと思います。