「その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの捕われ人を帰らせると、主は言う。わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する」
主なる神は、イスラエルと交わされた契約を決して忘れることなく、誠実にその契約を果たされる方です。バビロン捕囚の後に、捕囚から贖い出し、イスラエルを再建することを、エレミヤを通して明確に語ります。契約を放棄したイスラエルの民に対して、神は新しい契約を結び、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」とおっしゃるのです。
イスラエルの民はバビロンによって壊滅的な状態にさらされます。それは、主の懲らしめであり、罪に対しての当然の結果でありました。その傷は痛み、あまりのひどい状況のゆえに、イスラエルの民を弁護する者はいなく、同盟国もイスラエルから離れます。「捨てられた女」とも呼ばれたイスラエルの民に対して、主なる神は彼らを完全に見捨てることはせずに、懲らしめの後に彼らの傷を癒されます。主は彼らを弁護し、イスラエルが諸国の民から軽んじられることのないように守られる方です。
私たちのうちに、癒えていない傷は存在しているでしょうか。心の深くに刻まれているような深い傷はないでしょうか。決して癒えることのないように思えても、主なる神は私たちの傷を癒し、私たちを弁護してくださる方です。廃墟のような心の状態であっても、神はそのうちに感謝と喜びを満たして回復される方です。
神はイスラエルの悔い改めの祈りと叫びを聞き、ご自分の民へ回復の希望と愛を示されます。ラマとはエルサレムの北にある町で、捕囚の民がバビロン移住のために集められた場所でした。主なる神は、イスラエルの嘆きと涙をみて、彼らをあわれみ、回復の道を備えられていることを告げます。
試練や困難は、ときに私たちが神を忘れ歩んでいることを悟らせ、私たちを神の御許に向かわせます。私たちをねたむほどに愛されている主は、私たちが主に立ち返り、主とともに歩むことを望んでいます。私たちは神が不在のなかで物事を進めるのではなく、どのようなときも神の国と神の義を第一に求めていきましょう。
主なる神は、イスラエルと再び契約を結ぶことを語られます。その契約はモーセと交わされた契約と同じものではありません。それは、かつてのように石に刻まれる契約ではなく、私たちの心に刻まれるものです。契約の箱に収められていた十戒は神と民の契約の象徴でした。その契約の箱が収められていた神殿が崩壊され、神との契約そのものが無効とされるような時代、エレミヤを通して神は、決して壊されることのない民の心のうちに契約を刻むことを語りました。
神の民として、私たちの心のうちには、変わることのない神の契約がしっかりと刻まれているでしょうか。うわべだけではなく、心から神の民であることに誇りをもって歩んでいきたいと思います。