前回の悪い王たちへの言葉を受けて、23章は悪い牧者(指導者)への裁きから始まりますが、3〜8節で、主が良い牧者を立てて民を牧させるという明るい言葉が続きます。厳しく、暗いメッセージが続いてきたエレミヤ書では、珍しくホッとする印象を受けます。5・6節で語られる「一つの正しい若枝」「主は私たちの正義」(新共同訳「主は我らの救い」)と呼ばれるのはイエス・キリストのことで、4節の「牧者たち」(複数形)は、イエス・キリストによって立てられる、教会の教職者たちだと考えてよいでしょう。
しかし、9節以下はまた偽預言者らへの厳しい言葉となり、それが40節まで延々と続きます。人々の歓心を買うような話を、「主の託宣」(新改訳「宣告」)として語り、人気を博している預言者たちです。主の名を持ち出しつつ、主への恐れ多さを全く持ち合わせません。「みだりに主の御名を唱える」罪は重いのです。軽々しく、「神様はわざわいなんか与えない、きっと大丈夫」と保証するばかりで、火のような主の言葉に自らの心を焦がされ、おののくことがないなら、捨てられるのです。これは、現代の牧師をも、その真偽を判別する基準です。
24〜29章までは、冒頭に年代を記しますが、年代順に並べられてはいません。わざわざその最初に配される24章は、これ以降を見通す基本的な視点を明らかにしていると言えるでしょう。バビロンへ連れて行かれた民こそが、再生の希望を担う、真実な民となり、エルサレムに残ってわざわいを免れたと安心している民は滅びへ向かっている、というのです。
バビロン捕囚は、強烈な悲劇でした。その喪失、悲惨は、主の裁きでした。けれどもそこで心を砕かれ、主に立ち返ることができるなら、避けて通ることばかりを考えてはなりませんでした。
私たちも、心を尽くして主を求めるためには、今ある(幸いで、平穏な)生活から引きはがされなければならないこともある、ということでしょう。少なくとも、わざわいを免れていることを誇っていては、それこそ、救いようのない魂と成り果てるしかないのです。