21章で初めて、王宮からエレミヤに助けが求められます。これまでエレミヤの言葉を笑い、憎み、揉み消そうとしてきた状況が、風向きを少し変え始めます。しかし、それは、自分の間違いを認め、悔い改めたから、だったのでしょうか。いいえ、ただ迫り来たバビロン軍による攻撃を何とかしてやり過ごしたいからに過ぎませんでした。主は、そんなイスラエルの敵となって戦われるとおっしゃいます!
けれども、それはイスラエルが憎くなって滅ぼすため、堪忍袋の緒が切れたため、などではありません。過ちを認めて主に降参し、潔くバビロン軍に投降することに、いのちが約束されています。反対に、なおもエルサレムの生活にしがみつき、現実となった主の警告から逃げ続けるなら、死が運命となるのです。自分の生活を守ることが第一、という考えから、神が第一であると気づかなければならない、最終段階です。
この部分が21・22章の序論となり、21章11節以下は、ユダの王家(特にエホアハズ、エホヤキム、エホヤキン)への宣告がまとめられます。その最後はバビロンへの捕囚です。22章29節「地よ。地よ。地よ」と三度繰り返す極めて強い宣告は、人の行いが地を汚す悲惨を強調します。耳から離れなくなる主の嘆きです。
しかし、王たちへの厳しいさばきも、エレミヤ書52章では、エホヤキン王がバビロンの地で、憐れみを受けて過ごす描写となって再登場します。そして、この情景をもってエレミヤ書は閉じられるのです。捕囚は、王も民も深くへりくだり、主の憐れみに生かされるためだったのです。王国の治安・繁栄が人の望む幸いでしたが、主は、一切を失ったとしてもそれで心砕かれ本心から主に立ち返るならば、それこそ幸いな人生と見ておられる、ということでしょうか。