18・19章は、「陶器師」のたとえが重なります。18章は粘土をこね直し、19章は焼いた陶器を粉々にし、とガラッと厳しさが重々しくなったようです。しかしもっと大事なのは、陶器師を例にしてのメッセージに対する、かたくなな反応です。18章では、エレミヤ暗殺の企みとなり、19章の反応は20章に続き、主の宮の長パシュフルによるエレミヤ逮捕となるのです。これほどに聞く耳を持とうとしないなら、言われるとおり、こね直すか、粉微塵にされるかしかないでしょう。
その合間に歌われるエレミヤの告白は、なんと激しいことでしょう。敵の子らまで虐殺してくれとか、自分なんぞは生まれなければよかったとか。あまりのきつさに、戸惑い、引いてしまいたくなります。けれど、この激しい言葉が示すのは、罪のもたらす嘆きの深刻さです。罪を犯した本人が厚顔無恥で平然としていても、その家族が後々までもしわ寄せを受け、援助者が四苦八苦し、ということは実例に事欠きません。
しかし、何よりも、天の神が、私たちの罪のために苦しみ、嘆かれ、御自身に痛みを負うておられたのです。そのことは、ゲッセマネの園と十字架で苦しまれた主イエス様にありありと表れています。
エレミヤは自分の人生を、生まれないほうがよかったと口走ります。しかし、こんな慟哭が聖書にあるということ自体に救われる思いをする人も、きっといらっしゃるのではないでしょうか。神様は、私たちの嘆きを知っておられ、御自身の嘆きとして、覚えてくださっています。
心揺れ動きながらの地上の生涯だからこそ、陶器師なる神の測り知れないご計画とご真実を信じさせていただきましょう。