所帯を持つことを禁じられ、喪中の家に悼みに行くことも、宴会に加わって楽しむことも禁じられたエレミヤは、民の罪に対する主の嘆きを、まさにその生の丸ごとで表すようにされます。
この時期、まだエレミヤの預言した国家の危機は、現実とは見えなかったようです。平時にあって、エレミヤは主の怒りと裁きとしてのわざわいとを語り続けます。これは、どんなに勇気を振り絞っての行動だったでしょうか。洪水のきざしもないなかで箱船を造り続けたノアのようなエレミヤでした。
しかし、「苦しいときの神頼み」は、本当の信仰へのきっかけとはなっても、神とのいのちの関係とは別のものです。異教徒の外国人ならともかく、主なる神の民を自認しているイスラエル人にして、ほかの神々に心を寄せ(偶像崇拝)、自分の生活が安泰であればいい、という恩知らずは、平穏のただなかにあってこそ悔い改めなければならなかったはずです。
現代に置き換えれば、イエス・キリストを知らない人によりも、すでに「クリスチャン」を自称している「私たち」にへの問いかけです。主を信頼するよりも、自分の願いを頼んでしまう、直しがたい陰険さを突きつけてきます。
罪とは、道徳的なものである以前に、主に対する存在のあり方です。「悪いこと」などせず、平穏無事に暮らし、イエス様を「一応」礼拝し賛美していても、まさにそこにおいて神を神としていないなら、「万死に値する」とさえ言えるのです。もちろん、主は容赦なく罰し、怒られるのではなく、愛と忍耐を持って正しい関係へと必死に呼びかけてくださっています。それでも聞かなければわざわいを起こし、「苦しいときの神頼み」でもいいからとの謙遜をもって悔い改めへ導かれます。こういうのを「強いられた恵み」と呼んだりします。
この部分の帰結は、17章19節以下のとおり、「安息日の遵守」です。主から離れやすい心を正しく生かすのは、やはりまず、主の日(今では日曜日)を礼拝のために専念して過ごすことでしょう。教会で楽しみ恵まれることにもまして、神である主の前に、人としてへりくだって、主だけを信頼するために、万難を排して礼拝へ行きましょう。