14章1〜16節と14章17節〜15章9節は、「わざわいの予告→民の祈り→主の拒絶」というパターンを繰り返します。「日照り」や死の予告に引き出された民の実際の祈りか、それともエレミヤが民の側に立って仮想した祈りか、いずれにしても、これらを主は一蹴なさるのです。
民の「悔い改め」の言葉は、敬虔そうに見えて疑いません。このまま曲を付けて歌えそうなくらいです。けれども主は、その心が悔い改めず、さまようことを死して、主に立ち返ろうとしていない「本音」を突かれます。口先だけ、言葉だけの祈りは、それがどんなに立派で美しくへりくだって見えても、主の目を私たちの心から逸らせるものではありません。
エレミヤ以外の預言者は、民に平安を告げます。決して悪意や不遜から語ったとばかり断定はできないように思います。民の心情を配慮して、励まそうとの善意ある弁論だったような気もします(勿論そこには、神からの栄誉よりも人からの賞賛を求める思いがなかったとは思えませんが)。
しかし、そういう言葉を、しかも主の名を借りて語ることを、主は許しません。主を恐れ、悔い改めて主に真実に生きることよりも、テキトーな回心で平安が約束されるような人間本意の宗教を教えてはならないのです。
そうはいっても、エレミヤ自身、心は乱れます(15章10節以下)。みことばを喜びだと言いつつも、主を「欺く者、当てにならない小川」呼ばわりし、主に叱咤されます(15章16・18・19〜21節)。それでも、14章の、しおらしさを装った歌よりは、乱れ、疑う心を率直に申し上げるエレミヤのそばに、主はおられるのです。
日照りや病や死、様々なわざわいを送って、主は私たち人間に挑まれます。それは人が、神の偉大さを知り、本当にへりくだって、聖なる恐れを抱くためです。あなたの「神」が小さく、人の都合でこしらえたイメージに過ぎないなら、それは壊される必要があるのです。