12章14〜17節は、唐突に、憐れみと回復の言葉が語られます。文脈の流れからは場違いな感じがします。それだけにやはり、主の本心は、御自身の民を怒り裁くこと以上に、憐れみ、祝福したい、慈しみの御心であるのだ、と印象づけられるのです。
しかし、そのためにも、いいえ、そのためにこそ、まず人間の罪、不信仰がきちんと解決され、悔い改めがなされることがどうしても必要なのです。しかもその罪は、「腐った帯」や、人の肌の色、「ヒョウの斑点」のように人間に染みついています。それを人間に捨て去らせるのは簡単なことではないのです。だから、エレミヤの苦労はまだまだ終わりません。エレミヤ自身、煙たがられ、殺されかける体験をしました(11章)。その恐れ、やり切れなさ、憤りから、激しい復讐の言葉を吐露せざるを得ないほどです。
けれどもそれに応えて主が示されるのは、さらに大きな戦いへの覚悟です。7〜11節を、新改訳はエレミヤの言葉としていますが、新共同訳は主のことばと訳しており、こちらのほうが主流のようです。それでいて、主の嘆きかエレミヤの嘆きか、どちらともつかないような文であるのも事実で、エレミヤも主もともに嘆いているのです。「嘆きの書」と呼ばれる本書は、罪を悔い改めない背信の人間に対する主ご自身の激しい嘆きをありありと語る書であることが分かります。
主を心から恐れて歩もうとする時に、祝福や恵みに満ちることもあるでしょうが、世界と自らの罪とに嘆かざるを得ないことこそは避けられません。しかし、その嘆きは、実は主ご自身の深い嘆きに(やがて、御子キリストの十字架となる、あの悶えるような苦しみに)ほんの少しだけ触れる経験なのです。