【1〜16節】 偶像礼拝
【17〜22節】 国土の荒廃
【23節〜25節】 エレミヤの祈り
「御怒りによって懲らしめないでください」という祈りはよく聞くが、「公義によって、私を懲らしてください」(24節)という祈りは珍しい。エレミヤは懲らしめを神に求めた。つまり、ただ神の怒りを恐れるのではなく、神の前にへりくだるための恵み深い矯正を受け取りたいと願っている。エレミヤは、人が契約の道を真っすぐに歩み通すためには、道から外れたときに懲らしめを受けることが必要であると理解している。
「公義」は神の律法を指す。罪を犯した者に契約(律法)が適用されれば、当然刑罰が科されることになるが、エレミヤが求めていたのは、契約の究極的な目的、すなわち試練を経て完成に至る道だった。すなわち、契約のもたらす祝福に至るためには、その懲らしめを受けなければならない、と考えている。これはエレミヤが契約の恩恵性について正しい理解をもっていたことのあらわれである。エレミヤのように、「聖化と完成に至るために、あなたからの正しい懲らしめと訓練が必要です、愚かで悟りのない私を、どうか苦しみのなかで訓練し、成長を導いてください、あなたが深い愛によって今私を訓練してくださっていると信じます」と祈る者でありたい。
【10章の脚注】
2節 「天のしるし」 異邦人は、日食や月食、彗星などを悪霊の働きとして恐れていた。被造物を拝むのではなく、創造主なる神を恐れる信仰が求められる。
16節 「ヤコブの分け前」 創造主なる神のこと。神はイスラエルにご自身を分け前として与えたほどに愛し、緊密な関係を持ってくださることを表して、ご自身のことをヤコブの分け前と言われた。
17節 「包囲されている女」 エルサレムの住民、さらにはユダの国の困難な国家状勢のこと。
「荷物を地から取り集めよ」 この地を去るために荷造りせよ、の意味。
18節 「放り出し」 力づくで町から追い出す、または根こそぎにする、の意味。
「思い知らせてやるため」 直訳は彼らが見出すため。誰が何を見出すかについては、2つの解釈がある。1つ目は、イスラエルの民が真実の神を見出すという解釈。2つ目は、バビロンが包囲したエルサレムの町で最後の一人を見つけ出すまで、つまり誰も逃げられないという捕囚の厳しさを示すという解釈。
20節 「天幕は荒らされ」 天幕とその中の子どもは、神の恵みによって守られる祝福を表す。それが倒されるというのは、神の祝福が取り去られたことを表す。
21節 「牧者」 国の指導者たち。神と人との関係を牧者と羊にたとえ、大牧者なる神から羊を飼うようゆだねられた国の指導者に対して裁きが下る。
22節 「うわさ」 北からバビロンが攻めてくるうわさ。まだ実現には至っていないが、悲劇的な結末が迫っている。民は、この段階で預言者の言葉に耳を傾け、神の前に悔い改める道を選ぶこともできたのだが・・・。
【1〜17節】 契約違反の告発
【18〜23節】 エレミヤの告白
エレミヤの祈りにある「復讐する」(20節)とは、個人的な感情で報復を求めているのではなく、正しい裁きを神にゆだねることである。つまり、エレミヤは、神が「思いと心をためされる」方であると信じており、何が正しいか真実な方に判断していただきたい、とゆだねるのである。「打ち明けた」(20節)の直訳は「投げかける」であり、信頼して思いのすべてを打ち明けるという意味も含まれる。エレミヤは、自分の生死についても神にゆだねている。エレミヤは、彼の問題が彼一人のものではなく、必要であれば神から正義の介入がなされることを信じている。
神がエレミヤに対して一番言いたかったこと。それは「目に見えるものによってではなく、信仰によって生きる者となりなさい」ということである。目に見える状況ではなく、それを超えた神を見る。
ときに私たちも、熱心に主に仕えているのに、何も目に見える結果がなく、敵対や反対、落胆、孤独によって、主のための奉仕が空しいものに思えてくることがある。そんなときは悪人が栄えているように思えたり、神が私を見捨ててしまったように感じたり、他人がみんな上手くいっているように見えたりするものである。しかし、信仰によって私たちは、目に見える状況と真実とは違う場合があることを知ることができる。
神は私たちに、死にさえも打ち勝つ十字架をお与えになり、圧倒的な勝利の約束を示された。とすれば、死に打ち勝っているのだから、仮にあなたの前に強盗が現れてナイフで切り刻んで殺して踏みつけたとしても、勝利している事実は変わらない。死にさえもすでに勝利している。殺されることさえも恐れなくてよい。したがって、私たちは、どのような困難が起きようとも、目の前の状況ではなく神をしっかりと見つめ、神の約束の言葉を信じる信仰によって、恐れずに歩むことができるのである。
【11章の脚注】
8節 「実現させた」 神との契約には、祝福とのろいが明記されている(申命11章26〜28節)。今、民に臨もうとしている災いもまた、契約の成就である。しかし、のろいの後に、なお望みを置いてくださる(申命30章1〜3節)、あわれみの主でもある。
15節 「わたしの家」 エルサレム神殿。