第42金曜 エレミヤ書8章〜9章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

【8章】 背信を続ける民

 【1〜3節】 神殿説教の続き
 【4〜17節】 背信と裁き
 【18節〜9章1節】 激しい荒廃に対するエレミヤの嘆き

 4節以降、ユダの背信は不自然で、自然の成り行きと異なっていることが、驚きをもって語られる。
 人間は、確かに倒れたら自然に起き上がり、間違えたら直そうとする理性を持っている。しかし、その理性のなかにも罪の性質が入り込んでいるので、正しく働かせることが難しくなってしまった。
 人は神によって新しく造り変えられ、罪によって堕落した理性を回復させていただくことにより、初めて理性を正しく働かせることができる。それには自分が罪の奴隷であることを神の前で認め、神によって造られた被造物としての自らの限界を潔く認めることからスタートする。そして神が聖霊によって新しい回復のプログラムを歩ませてくださることを信じることによって進んでいく。
 人間的な理性によって歩もうとする者は、一見、知的に見えるかもしれないが、正しく働かない理性を基に歩んでいるので、結局は堕落してみじめになる。

 この時代のイスラエル人と同様、今日の私たちも罪を楽しみ、罪をコントロールでき、いつでも罪から離れられると考える。しかし、気づいたときには、もう罪は私たちの主人になっているのである。どうしてこうなったのだろうと思っても、もう遅い。罪を利用してそこから良いものだけを得ることなど決してできない。そのようなことをすれば、必ず最後にはみじめな敗北が待っている。罪は冷酷な主人のようなもので、この主人は罪人を酷使し、虐待して、最後には捨て去る。
 誘惑がやって来たときには、堕落の機会ではなく、神への愛と献身を表す好機と捉えるべきだろう。あらゆる罪の誘惑に対して、私たちは「サタンよ、その問題はすでに解決済みである!」と言えばよい。誇らしく神への愛と忠誠を証しよう。

【8章の脚注】

3節 虐殺を逃れて生き残った者も、死んだ方がましだったと嘆くほどに、荒廃が国全体に甚だしく及ぶこと。
8〜9節 律法が与えられていることを誇るだけでは意味がない。律法に従い、神を礼拝することが、知恵ある生活にほかならない(第一ヨハネ5章3節)。
20節 「救われない」 おそらく、収穫の夏が過ぎて秋が来ても、実りがなかったので満たされないことの意味。秋はバアルへの収穫祭が行われた時期であり、そこに祝福と満たしが無いことを表す。
21節 「傷」 破れるという意味。民の状態があまりにもひどいために、エレミヤは心が破れるような痛みを覚えている。「恐怖が私を捕えた」は「苦痛が私たちを捕えた」(6章24節)よりもさらに強い表現である。
22節 「ないのか」「いないのか」 反語法。傷薬はないのか。いや、ある。医者はいないのか。いや、いる。ではなぜ傷はいやされなかったのか。それは、民の傷があまりにもひどく、傷薬でも医者でも治しようがないほどだからである。

【9章】 嘆きの歌

 「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを」(24節)
 信仰の価値は、信じる対象の価値によってすべて決まる。何を信じるかが決定的に重要となる。
 真の信仰は、前向きに考えることでも、積極的な思考でもない。どんな善行をするかでもない。ただ神に信頼することである。
 他方、偽りの信仰は、人間、およびそれに属するものに信頼することから始まる。他人の評価、地位、富、名誉、そして自分の努力も含まれる。しかも、サタンは私たちに、「神はあなたの努力に満足してくださいます」と畳みかける。人間により頼むことと神により頼むことは同時にはできない。そこでサタンはまず、自分の能力により頼むように誘惑する。そして、神から離れさせようとする。これがサタンの罠である! 人間の能力により頼む者は、すでに神から離れ始めている。
 人は、全能の神に信頼するなら救いと力を得、弱い人間に信頼するならみじめな結果を招く。

【9章の脚注】

2節 「旅人の宿」 厳しい荒野の自然から一時的に旅人を守るための仮設小屋のようなもの。エレミヤはそんな場所でもいいから、民から離れたいと告白している。本来、預言者は、民の間に遣わされ、神の言葉を語り続ける存在であるが、エレミヤは、預言者としての仕事を投げ出して一人になりたいと告白する。それほどに、民の罪が甚だしく、もはや耐えられないと叫ぶ。
3節 「舌を弓のように曲げ」 言葉を曲げる、偽証、嘘、偽り。
7節 逃げ出したいと言っていたエレミヤが、もう一度民と向き合い、厳粛な裁きの宣告を繰り返す。
「溶かして試す」 炉から貴金属を取り出すためではなく、民が石ころ同然であることを明らかにするため。
16節 「絶滅させる」は「ことごとくは滅ぼさない」(4章27節、5章18節)と矛盾しない。44章27節で「剣による絶滅」が予告されるが、続く44章28節では「剣をのがれる少数の者」の存在が約束されているのと同様である。神は常にあわれみと悔い改めの道を残しておられ、私たちが帰るのを待っておられる。
17節 「巧みな女たち」 泣き女と同義語。職業的な泣き女のこと。
20節 「娘に嘆きの歌を教え」 災いの規模があまりにも大きいので、職業的な泣き女を総動員してもまだ足りず、エルサレム中の女たちが互いに哀歌を教え合い、娘たちにもそうしなければならなくなる。
25節 「包皮に割礼を受けている者」 心に真実な悔い改めがなく、外形的な行いだけ改めればそれでよいと思っている者のこと。


【信仰告白】

[2] 使徒信条