第42木曜 エレミヤ書6章〜7章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

【6章】 エレミヤの警告と民のかたくなさ

 【1〜8節】 北から攻めてくる敵がエルサレムを包囲する様子
 【9〜15節】 腐敗の結末。神とエレミヤの対話
 【16〜21節】 契約の立法が破られていることと形式的な礼拝
 【22〜26節】 侵略者の性質
 【27〜30節】 炉で試された神の民

【6章の脚注】

1節 「ベニヤミンの子ら」 南ユダ王国はユダ族とベニヤミン族によって構成される。
9節 神は、愛する民のうちに、正しい者がいないかどうか調べるよう再度促す。農夫が収穫のぶどうの実を大切に扱い、一つも残すことがないように、神はイスラエルの民に最大限のあわれみと忍耐を示されている。
16節 「幸いの道」 幸いに至らせる道(単数形)であり、神がイスラエルに律法を通して示してこられた、神との契約の道である。神は民に呼びかける。「あなたがたは神と契約を結び、最高の祝福が約束されている道を歩んでいたではないか。思い返してみよ。これまでの歩みのなかで何が幸いであったかを」
17節 「見張り人」は預言者たちのこと。またその警告。
19節 「たくらみの実」とは、行いの実に対応する言葉で、エレミヤが外形的な行いを問題とするにとどまらず、心のあり方にまで迫るもので、心の割礼(4章4節)を受けよと語った彼の真意が、ここにも見て取れる。ヨシヤ王の宗教改革よりもさらに厳しく徹底したものである。
20節 礼拝における心の伴わない形式主義や過度の贅沢を非難している。
28〜30節 鍛冶屋が金属の純度をためすように、神はエレミヤに神の定めた契約の道に忠実であるか否かを試すよう命じる。信仰は試練という火によって精錬される。

【7章】 神殿攻撃の説教

 【1〜11節】 神殿攻撃の説教
 【12〜15節】 エルサレム滅亡の預言
 【16〜20節】 異教の女神崇拝の蔓延
 【21〜28節】 生け贄ではなく悔い改め
 【29節〜8章3節】 幼児犠牲に関する断罪

 7章からエホヤキム王の時代に語られた預言が始まる(1〜6章はヨシヤ王)。
 ヨシヤ王の31年間の治世は、北上してきたエジプトのパロ(ファラオ)ネコとの戦いで戦死する悲劇で幕を閉じ(第二歴代35章20〜27節)、エホアハズが王に立てられた(紀元前609年7〜9月)。しかし即位からわずか3ヶ月後、ネコによって廃位させられ、エホヤキムが立てられた。ユダにとって紀元前609年は、列強に翻弄され次々に王の変わる激動の年であった。
 このような時代にあってエレミヤは、新王の即位式を終えたばかりの神殿で「この神殿は攻撃されて廃墟となる」という衝撃的な預言を語る。そして、南ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚が実現する前に、神の前に真に悔い改め、神に立ち返れと警鐘を鳴らした。この預言によってエレミヤは命の危険にさらされ(26章参照)、後に様々な苦難を迎える(すべての人からのろわれる、物笑いとなる、家族に反対される、一晩足かせにつながれる、故郷アナトテの人ですら彼を殺そうとする)。

 「行い」(3節)は、口語訳で「道」と訳されるように、人生のすべての道と捉えることができる。すなわち、実際の行動だけでなく、心が向かう方向、心の願い、思索の習慣などもすべて含まれる。「わざ」(3節)は、そのような心の方向、願い、習慣から生じる具体的な行動を意味する。エレミヤは、これから良い行いをしようと決心するように呼びかけたのではない。心を含めた全存在の方向性をまったく新しくするように求めた。真の信仰とは、自らの命のうちにあるものを明らかにすることであると強調したのである。
 エレミヤの神殿説教の主題は攻撃の警告であるが、その目的はあくまで悔い改めに導くことである。初めに語られたことは、今でも待っていてくださる神の忍耐と、真実な悔い改めにより裁きを思いとどまらせてくださる神のあわれみである。エレミヤのメッセージの目的は、あくまでも「イスラエルよ、帰れ」であり、裁くことが目的ではない。

 社会不安のなか、ユダの人々はエルサレム神殿という「建物」に心の拠り所を求め始める。「我々にはエルサレム神殿があるから滅びることはない」という誤った信仰が起こり、一部の祭司はそれを扇動さえしていた。彼らは神殿における宗教的義務を果たすことで安心し、神殿の中にいれば神の守りがあると安心していたのである。「これは主の宮だ」(4節)は、そのような背景から出た言葉である。
 しかし、それは偽りの確信であった。彼らは神殿を信じていた。伝統を信じていた。そして宗教的な行為を信じていた。だが、自分たちの宗教行為に満足していただけであった。人間の努力や感情に基づいて、「すべてがうまくいっている」という儚い安心を与える、偽りの宗教であった。
 私たちも、神との正しい関係を持たずに宗教的な行為だけを行っている場合がある。教会信仰や交わり信仰、宗教的なルーチンワークが維持されることで神に守られていると思ってしまう危険がある。宗教的な行為が神との個人的な関係に取って代わることのないよう、よくよく注意しなければならない。

 21〜28節では、形式的な祭儀のみを行い、神の契約の律法に従わない矛盾を突く。
 イスラエルの民が荒野にいたとき、神は一方的な恵みとして、永遠の祝福に至る契約を結ばれ、その恵みの証として十戒をお与えになった。まだいけにえや祭儀に関する規定はなく、祝福の約束だけが存在していたのである。
 その後、自らの罪により神との関係を断絶してしまった人間のために、関係を回復する恩恵的な赦しのシステムとして、いけにえや祭儀に関する規定が設けられた(これもまた恵みである)。しかし、神の御心は、「わたしはあわれみは好むがいけにえは好まない」というように、形式的な犠牲を求めるところにあるのではなく、あくまでも愛に基づく一方的な恵みと祝福を与えるところにあった。
 エレミヤは十戒を念頭に置き、形式的な祭儀の規定だけを行う無意味さと、それが罪を正当化するための道具になっている現実を批判する。

 31節の「自分の息子、娘を火で焼く」は、幼児犠牲を指す。カナン人の間には、最初に産まれた子どもを豊作祈願などのためにいけにえとして殺す習慣があった。その悪習を多くのイスラエル人も真似て、トフェテの谷やエルサレム神殿では幼児犠牲が行われ、人柱として幼児を家の壁に埋め込むこともなされていた。バアルの預言者は公の幼児殺人者であり、バアル、アシュタロテ礼拝は、殺人と性的不道徳を儀式として行う、おぞましいものであった。
 幼児犠牲が忌み嫌われた理由は、神の御心に反するものだったからである。神は命の犠牲を求める方ではない。たしかに創世記において神はアブラハムに対しイサクをいけにえとしてささげよと命じたが、その真の目的はアブラハムの献身を試すためであり、神は身代わりの雄羊を用意してくださった(これは、私たちの罪の身代わりのイエス・キリストと、罪の贖いの十字架を証している)。
 幼児犠牲は、神の愛を否定し、贖いの十字架を否定し、人が神によって大切に造られ、愛されている存在であること、ゆえに命も貴いということを忘れさせる、恐ろしい罪なのである。

【7章の脚注】

2節 「主の家の門に立ち」 神殿の門は人の出入りの多い公的な場所である。神はエレミヤに授けた言葉を公の宣言として語れ、と命じられた。
4節 ユダ王国における神殿信仰について少し補足すると、確かに、ダビデ契約において 「主はあなたのために一つの家を造る〔ダビデ王家確立の約束〕」(第二サムエル7章11節)と、「彼〔ダビデの世継ぎの子〕はわたしの名のために一つの家を建て〔神殿建設〕」(同13節)は切り離すことができない(詩篇132篇11〜12節参照)。つまり、ダビデ王家の継続と神殿の存在が、神との契約の永遠性を保証する。よって国の存続を願うユダの民が神殿の存在を拠り所とすることは、一面において真理とも言える。しかし、ダビデ契約は神の恵みによる贖罪により始まり、その目的は神の主権的な恵みに栄光を帰すことであることを忘れるなら、ただちに形式主義に陥る危険がある。神殿は免罪符ではない。エレミヤは「国の安全が何によって守られるのか」を問い、今まさに、悔い改めと、この世界を造られた生ける神への信仰が求められていることを語った。
11節 「強盗の巣」 これから罪を犯そうとする者が自己正当化のための免罪符として神殿に来るなら、そこは神を礼拝する場所ではなくて、強盗の集まる家と同じである。バアル礼拝をする者は「神殿があるから守られる」と言い、不道徳にふける者は「神殿でいけにえをささげたから赦される」と言う。
14節 「シロにしたのと同様なこと」 かつての聖所で契約の箱が置かれていた場所。ペリシテ人によって破壊された(第一サムエル4章1〜11節)。エルサレム神殿だけでなくユダの国全部が滅ぼされるという宣告。
15節 「エフライムのすべての子孫を追い払ったように」 アッシリヤにより北イスラエル王国の民が捕囚として連れ去られたこと。南ユダ王国も同じようになるという預言。
18節 「天の女王」 イシュタル、アシュタロテなどと呼ばれ、農耕民族の間で多く見られる豊穣と多産の女神。金星を崇拝の対象としていた。バアルは男性神として性的不道徳を招き、多くの神殿男娼や娼婦(ヨシヤ王の宗教改革で全員死刑)を発生させた。天の女王は各家庭の生活に入り込んだつつましい豊作祈願ではあるが、やはり被造物である金星を神格化して拝むことは創造者である神を否定する偶像礼拝である。
29節 「長い髪を切り捨て」 長髪は女性の栄光であり、貞操を神にささげた聖別のしるしである。それを切ることは、単に悲しみの表現だけでなく、聖別された者がその資格を失ったことを示す恥のしるしである。これは女性にではなくイスラエルの民に向けたもので、恥をあらわにされたことを嘆けと命じるものである。
32節 「虐殺の谷」 幼児犠牲を奉献した場所で、その罪を犯した民自身が葬られるという罪の結果。


【信仰告白】

[2] 使徒信条