【1〜9節】 義人はいない
【10〜19節】 滅ぼす者への召喚状
【20〜25節】 裁きの理由たる偶像礼拝の愚かさ
【26〜31節】 社会的不正行為と堕落
神は、出て行った娘が家に戻ってくるときのために、いつも扉を開けたままにしておかれる。私たちが家に帰るには、つらい悔い改めの道を通らなければならず、それ以外に道はない。しかし、エレミヤの語った悔い改めへの招きは、私たちにとって大きな希望となる。それは、私たちが神の前にどれほど大きな罪を犯し、神から遠く離れてしまったとしても、ふたたび神との豊かな愛の交わりのなかにいつでも戻って行くことができるというものだからである。
これは、大きな試練が与えられたときに倒れてしまわないために、私たちがしっかりと握っておくべき重要な真理でもある。私たちは「大きな罪を犯してしまったので、もはや神との関係回復は不可能である」と間違って信じ込んでしまうことが多いのである。
エレミヤが悔い改めと神の招きを語ったのは、裁きが迫っているからという理由だけではない。そこに神が待っておられるからである。エレミヤは「待っておられる神のもとに帰ろう」と呼びかける。
14節から「それゆえ」と始め、裏切りの罪が指摘された後、それに対する裁きが警告として与えられる。しかし、罪の裁きは、冷酷な情け容赦ない仕打ちではない。それは常に人間の罪を起点とし、過ちを気づかせるための警告なのである。このとき、父なる神は、我が子を愛するがゆえに懲らしめる。さながら、痛みを覚える父親のように。
旧約におけるイスラエルの歴史は、罪、警告、裁き、懇願、救済というパターンが繰り返される。イスラエルは、罪を蒔き、裁きを刈り取った。裁きの前に、神は実にあらゆる手段を用いて、ご自分のもとに帰らせようとされた(警告)。預言者、アッシリヤ、エジプト、バビロンも、ただ主権者なる神の手によって用いられた道具にすぎなかった。そして神は、イスラエルをご自分のもとに帰らせるために、しばしば懲らしめを与え(裁き)、そして彼らに蒔いた罪の苦い実を気づかせ、神に助けを求める(懇願)ようにされるのである。最後に、愛に満ちた神は、ご自分の子を赦し、壊れた関係を修復してくださる(救済)。これは罪に始まり愛に終わる歴史であり、神と私たちとの関係にもあてはまる。
【5章の脚注】
2節 「主は生きておられる」 宣誓の慣用句。誓ったことを裏切るなら、それは偽証と同じである。
5〜6節 「くびきを砕き、なわめを断ち切って」 神の愛の律法を破り、主の恵みの大庭からさまよい出て滅びに向かう姿を、自ら柵を越えて「獅子」「狼」「ひょう」の餌食になる家畜にたとえる。
10節 「ぶどう」 ユダの民の象徴。
14節 「あなたの口にあるわたしの言葉を火とし」 神がエレミヤに授けた言葉は、神ご自身の言葉であるから、すでにエレミヤが語った裁きの預言を、神は今まさに実現すると宣告された。
15節 「一つの国民を連れて来る」 アッシリヤ軍の襲撃のこと。
18節 「ことごとくは滅ぼさない」 捕囚から帰還する者がいることを指し、さらには神のあわれみが常に用意され、残されていることも含まれる。
27節 「鳥でいっぱいの鳥かご」 密猟者が不法に得た獲物を誇らしく眺め、決して放すことなくしっかりと集めるように、エルサレムにおいても不法を行う者が自らの不法を誇り、決して改めないことのたとえ。
28節 「彼らは、肥えて、つややかになり」 古代オリエントにおいて肥満は富を表していたが、同時にその行動に抑止が利かない者をも意味した。誤った貪欲を暗示していると思われる。
31節 「預言者は」「祭司は」 両者の併記が多いのは、偽預言者が祭司に取り入り、祭司は指導的階級に取り入る集団であったことを暗示する。
「自分かってにおさめ」 直訳は「彼らの手でおさめ」。神によって治められることとの対比。